そいつが今回ちょっかいを出したのは、単なる気まぐれだった。
 その男は別の存在によって"操られている"だけだし、彼の本心は、そいつにとって酷く薄っぺらいものだった。
 ただ、追いつめられていると思しき人間をさらに追い詰めたのは、そいつが"儀式"を行うことで、彼の守る"それ"の目覚めを促せると思ったのだ。
 しかし結局のところ、それは無駄なようだった。――――何故ならその男は、最後まで"偽物"を看破できなかったのだ。

「全く――……人間って本当にバカだよね」

 自身を宿す女性に語りかけるように、そいつは鏡に向かって笑った。


* * *


 部屋の中央に立って高笑いをしていたジェライは、窓ガラスを叩き割って入ってきた存在に思いっきり殴り飛ばされ、部屋の大きな扉に背中を打ちつける。それでも、何とか痛みをこらえて起き上がり――――フレイヤの無事な片手を握り返しているオーディンの姿に目を見開く。

「なっ!? き、貴様……何故生きて……――まさかフレイヤ!!!」
「悪いな、馬鹿貴族。俺は案外しぶといんだよ!」

 金色の髪を軽く掻く彼の頬や服には、乾いた血の跡があった。ただし、彼自身は出血しているようには見えない。
 オーディン達が立っている足元からは、既に光が消え失せている。何時の間にか掻き消えている紋様にジェライが目を見開く中、不安定なろうそくの明かりの下で、騎士団長の息子はジェライを指さす。

「さて、もう言わずともわかってんだろうな? 騎士団員への殺人未遂をそそのかし、ポケモンを自ら殺したり、こんな変てこな儀式の計画の為に、何人もの使用人を使ってるっていう事実……こんな物的証拠に他にもたくさんあるんだ。もう逃げられないぜ、観念しやがれ!」

 ジェライが目を見開き、その場に崩れ落ちる。悔しそうに両手を握りしめて首を垂れるそいつを、オーディンはちらりと見やる。
 動く様子がないことを確認すると、彼は自分の羽織っていた上着を脱ぎ、すぐさま服に隠れたフレイヤの左腕をめくり上げる。今なお血をこぼし続けるその細い腕を確認すると、上着の袖部分を彼女の腕に巻き付け、止血する。

「オー、ディン…………様」
「喋るな。ただ、意識はしっかり持って。――城に戻ったら、山ほど説教してやるからな」

 苦々しげな表情でそういうと、彼はフレイヤを両腕で抱き上げ――――ヒュンッと飛んできた何かを回避できたのは、ほとんど反射的なものか、或いは偶然が味方したのか。
 ジェライのすぐ頭上に、大きな黒鳥が羽をはばたかせていた。黒いテンガロハットを被ったような頭部を持つ鳥ポケモンのドンカラスが、二人を威嚇すような声を上げる。オーディンはジェライを睨みつけた。

「どけよ。もうお前だっておしまいなの、分かってるだろ」
「…………ない…………」
「は?」

 ぼそりと呟かれた言葉の意味が分からず、オーディンはゆっくりと立ち上がるジェライを見つめる。そして――――そいつは、壮絶な笑みで、全てを恨むような憎しみのこもった瞳で立ち上がり、

「こんなことで、私が終わるはずがない!!!」

 主人の激情に呼応して、ドンカラスがオーディンへと強襲。黄色のくちばしが、青年の目玉を狙い――――扉を蹴りやぶって入ってきた大型ポケモンが、ドンカラスをその場で押しつぶす。オーディンの目の前で体を大の字にさせて飛び込んできたカビゴンは、目の前でにっと笑うオーディンと視線が合い、諦めたように肩をすくめる。ちらりとカビゴンが体を横に流せば、その大きな腹でぺちゃんこに押しつぶされ、その衝撃で痺れで動けなくなっている黒い鳥の姿が。そして、

「おいおい。騎士団長の息子を暗殺するには、まずは師匠を通してからにしてくれよ」

 扉の向こうから、一人の男がやってくる。茶色の髪にエメラルドグリーンの瞳、若い声のそいつは、オーディンよりも一回りほど背が低く、ともすれば成人していないとも思える。しかし、まとう雰囲気だけは、オーディンの様な生易しいものではないことがよくわかる。

「おせーぞ、ファレンハイト!」
「逆だ馬鹿。お前が踏み込むタイミング早すぎるんだっつーの。ったく……証拠出てきたからいいものの……」
「きっ、貴様は…………貴様は、私に化石を売った……!!」
「よぉ、おとりに引っかかってくれたおバカ貴族。――まさか、儀式のことを適当にちらつかせたら、あっさり食いついてくるたぁ俺も思わなんだ。とりあえず、アンタがこの儀式だか計画だかのために関わったやつらは、大体洗い出した。そこのガキんちょの言うとおり、もう逃げられないぜ?」

 やれやれと肩をすくめる男――ファレンハイトの言葉に、ジェライは目を開き、言葉を失う。

「後はアンタの言う"協力者"とやらの存在、洗いざらい吐いてもらうだけだ」

 とどめの様なその言葉が、目の前の男の願望を叩き壊す。同時に。

「わ、わた、し……私は……私は私は私は――――!!!」

 今度こそ、ジェライの体がその場に崩れ落ち――――同時に、その影から、黒い生き物が湧き上がってくる。白く長い頭部は、その生き物がまとうローブの様な黒い姿と共に揺れ動いている。影の中から半分だけ体を出したそいつの青い瞳は、むき出しになった月明かりとろうそくの明かりの中で、はっきりと敵意を孕んでいる。
 突然の事態に、カビゴンは素早く起き上がって戦闘態勢をとり、ファレンハイトもまた、油断ならない面持ちで、ジェライの影から現れた謎の存在を睨み据える。
 と、そのポケモンがいきなり影から飛び上がったかと思うと、地面に向かってシャドーボールを叩き付ける。一瞬にして巻き起こった爆風と灰色の煙が部屋の中に充満。部屋の中の煙が消えたときには、既に、謎のポケモンの姿はどこにもなかった。

 後に残ったのは、気絶しているジェライ、やはり気絶しているフレイヤ、そんな彼女を抱きかかえるオーディンと心配そうに彼を見下ろすカビゴン、そして、面倒くさい後始末にため息をつくファレンハイトだけだった。


* * *


『やれやれ、失敗ですか。ま、偽物でもそれなりの効果があっただけでも、収獲でしょうかね。そうでないと、この一年間の暇つぶしが、無駄な時間に感じられてしまいます』

 ジェライ=コーナーの屋敷にいた老執事は、戻ってきた黒をまとう獣を撫でつつ、月明かりの下、しゃがれた声でため息をついた。

『それにしても、折角、彼の"願望"を引き出して上げたというのに、全く――……今度はどいつを使ってやろうか』

 同時に、老執事の顔からメタモンが滑り落ち、その声がしゃがれた老人の物から、若々しい男の声になる。そこにはもう、先ほどまでの老人の姿はない。暗い夜の元、男の唇が空に浮かぶ三日月と同じ形をとる。

『私は必ずお前を手に入れる。そのためにも、私はお前を目覚めさせてやるぞ――――"バイブル"よ』

 キングダム地方に降り注ぐ月明かりが、白い石畳の上に彼の影濃く描いた。


* * *


 結局、彼女はあの時、自分の左腕を犠牲にして、ナイフを血で濡らしたのだ。儀式の最中に光が弱まったのは、そこに"ただの人間の血"がなかったのが理由らしい。
 とはいえ、そもそもあの"儀式"とやらは一体何なのか、オーディンには最後まで理解できなかった。そもそも、非科学的としか言いようのない古代の方法で、何故そんな非科学的なものが発動したのかという意味は理解できないし、そしてこれはなんとなく、踏み込んだら戻れないような面倒な領域な気がして、それ以上深く突っ込んでいないのだ。
 詳しく知っていそうなファレンハイトもすすんでその話をしてくる様子もないので、とりあえず、オーディンは気にしないことにした。


「……んっ…………ここ、は…………」
「気が付いたか」

 医務室のベッドの上で目が覚めたフレイヤに声をかけると、彼女は起き上がるなり、おびえたように肩を震わせてこちらを見つめてくる。しかし、取り乱す様子はないまま、彼女は頭を下げてきた。

「すみませんでした」
「何に対して?」
「……――あなたを殺そうとしたこと、あなたを騙したこと。私は最後まで……貴方を理解しようとしませんでした」

 首を横に振る彼女は、オーディンとは目を合わせず、伏せたままだ。それ以上、何かを言ってくるわけでもなく、彼女は頭を下げたままだ。
 仕方なく、彼はため息をつく。

「ジェライは一年前、傾きかけていたルアーブル家に政略結婚を持ちかけた。表向きは、同じ貴族としての同情、そして民には人気のあるルアーブル家が傾いてしまうのはもったいない、という名目での取引。ルアーブル家当主も、自分の収める街、サンダーシティの住民達に無理な増税を強いたくないと思った結果……アンタは、売りに出された。しかし実際は、奴は元々、ルアーブル家の、代々特殊な血族であるアンタら自身を狙っていた」
「ええ」
「本来は、その特殊な血族としての力があるヴィエルを――まぁなんかあったぽいのか? 詳しく知らねぇけど――とにかく狙っていた。が、丁度その頃、ヴィエルは王子様にめとられてしまう。直後、ルアーブル家は王族に媚びを売ったのではないか、とかあらぬ噂を立てられて、貴族内部でも爪弾き物に。このままでは、貴族として、領主としてやっていくこともままならない。――そんな折に、やつは漬け込むようにして、政略結婚を持ってきた」

 オーディンの説明に、フレイヤは何を言うでもなく頷く。うなだれる彼女を、彼は鳶色の瞳を細めて見下ろす。

「アンタが、アイツの言いなりになっていた理由。逃げようとすれば代わりにヴィエルを誘拐する、みたいな脅し文句だったんだろ? ――――それにしたって、王子の妃候補を誘拐なんて、そっちの方がばれるリスクでかすぎるとは思わなかったのか?」
「…………」
「……まぁ、使用人たちがいなくなっていることを考えれば、あながちアイツの脅しが冗談とは思えなかった、ってことか」

 無言のまま反応のないフレイヤに、オーディンはため息をつく。顔を上げないためにどんな表情をしているか分からない彼女に、事情を尋ねるのは酷だと思っている。だが、話す内容が当たり障りのないものであるよりも、先に本題を片付けたほうがいいと思ったのだ。それは、謝ってきた彼女を理解する意味もある。

「アンタは、政略結婚が決まってすぐに、アイツの言う"計画"だかっていうのを知らされたのか?」
「はい。正しい手順と正しい礼法で、ポケモンを生み出せる。その触媒として――――"ポケモンの祖たる存在"の血をひく人間が必要、と」
「"ポケモンの祖たる存在"……それが、ファレンハイトの言ってた"ミュウ"とかってポケモンか」

 オーディン自身、ポケモンの種類はあまり詳しい方ではないのだが、その名前だけは、キングダム地方の歴史の中で聞いたことがある。

 かつて、このキングダム地方は荒れ果てた誰も住むことがないサイハテの地であった。そこにあるとき、一人の男がやってきた。男は、その土地を守護するミュウというポケモンと契約を交わすことで、土地を豊かなものへと成長させた。
 それがキングダム地方という国の起こりであり、そのミュウと契約した男こそ――――現在の王族、ゼロやマリアナ、ヴィエルやフレイヤなど、王族もしくは王族の遠縁にあたる者達すべての祖先、第一の国王なのだ。

 人間の血にポケモンの血が混じっている、というのは、どうにも胡散臭い話だが、それを今この場で追及するものではない。オーディンは肩をすくめた。

「んで、実際の儀式に必要なものを集めるのに一年かかり、ファレンハイトに騙されたとはいえ、必要な物体を集めた彼は、今回の強行手段に走った、と。――俺が狙われた理由は、おおかた、見せしめのためってことか。――とりあえず、アンタが無事だったのは……本当に良かったよ」

 心から思えたことを呟いて、オーディンは苦笑する。
 ふと、フレイヤが顔を上げていることに気づいた。どうにも感情の読み取れない無表情な様子で、彼女は空色の瞳を細め、

「どうして……普通に接するのですか?」
「?」
「私は――――私は、貴方を裏切ったんですよ!? 理解をしてくれようとした貴方を、殺そうとまでした!!」
「だけど、実際には殺さないで、自分の腕を切ってまで偽装しようとしただろ、お前」
「あれは……!!! あれは、私が人を殺す覚悟なんてなかったからです!! 相手が貴方あってもそうでなくても、関係ない……。ただ、怖かったんです。私は……臆病で、自分勝手で、自己中心的で、悲劇のヒロインを気取って、嫌なことしか言えないんです」

 だから、と続けようとした呟きは、彼が彼女の口に物を入れたことで遮られる。ふわふわとした感触を指ごと舐めるように押しこめられて、思わず声がくぐもる。見れば、不満そうな表情の彼が、手にしたパウンドケーキを引きちぎっている。どうやら、フレイヤの口に突っ込んだのはそれのようだった。

「俺を殺そうとしたことを気にしているんだとすれば、俺はアンタに、謝る必要があるな」
「謝る、ですか……?」

 意味が分からずに目をしばたかせる女性に、青年は――――少しだけ苦々しそうに頬を掻きつつ、ぽつりとつぶやく。

「アンタは、あの時、どうあっても俺を殺せないんだ。なぜならな――――俺の部屋の前に、ゼロにマリアナ様にケイジ先生にファレンハイトその他関係ある騎士団員の馬鹿どもが、もろもろ揃って見てたんだよ!!」
「……………………」

 ほとんど叫ぶように、というかやけくそもいい感じで、オーディンが頭を抱えた。フレイヤは口の中に詰め込まれたパウンドケーキを食べながら、目を見張るしかなかった。

「あんのファレンハイト、事前に、ジェライが俺を殺す様にアンタを脅したっていう情報を見つけたらしい。だから、俺はわざとポケモン達を部屋におかないで、アンタが心置きなく、俺を殺せるような環境にしたんだ」
「そんな……一歩間違えれば、死ぬかもしれないじゃない!」
「だから言ったろ、アンタは俺を殺せない。あの時、お前が俺の体にナイフを突き立てたとしたら、その寸前のところで、外で待機してたやつのエスパーポケモンが、俺を殺さないように止めてくれる……という予定だったそうだ。まぁ結果としては、アンタが自分の腕を切って偽装して、しかも、奴のドンカラスでさっさといなくなっちまったわけだが」
「…………これは、オーディン様、が?」
「一応誤解がないように言っとくとな、これは俺じゃなくて、ファレンハイトっていう、俺たち騎士団の中の頭脳派の役職、参謀長官についてる奴が、ジェライの馬鹿な行動をあぶりだすために考えた策だからな。だからアンタが悪いわけじゃない。むしろ、アンタがああいった行動をとってくれないと、奴の悪行を追及できなかったわけ、で……」

 そこまで言って、オーディンの声が突然、歯切れが悪くなる。首をかしげる彼を促すような目を向けると、彼は、困った表情で頬を掻き、

「……ただ…………その、なんだ、アンタが言った……こと、なんだが……」
「――――もしかして、告白の?」
「あぁ、そうだ。アンタが冗談か本気かは知らんが言ったあの告白も……あとパウンドケーキ押し込んだ時のあの行動も、まぁみんな見てたわけで……アンタには迷惑をかけたってことで……まぁヴィエルは幸い見てないからよかったといえばよかったんだが…………と、とりあえずほら、おあいこ、だろ」

 思い返してみると、フレイヤ自身、かなり凄まじいことをしたような気がした。
 なにせ、理解してくれるといった彼に勢いで気持ちをぶつけた挙句、(睡眠薬入りの食べ物を食べさせるためとはいえ)強引なキスをして、しかもその場に倒れた彼の上に馬乗りになって片腕を切ったのだ。

  ――――状況が状況でなければ、もしかしたら、変な勘違いをされたかもしれない。(いや、実際に状況がどうあってももう既に勘違いされたと思う。)

 一気に顔が赤くなっていき、もはやしっかりと直視できなくなったらしいフレイヤが、今度こそ毛布に顔をうずめる。オーディンも僅かに頬を赤めて、あさっての方向を向く。

「ま、まぁとにもかくにも……だ。ジェライについては、処罰されることが決定している。ルアーブル家に関しても、サンダーシティの領主としてやっていけるように、騎士団側やジムリーダー達が色々と尽力を尽くすらしい。そこらへんは詳しく知らないが……。あぁ、後、な……――あのジェライっていうのとの政略結婚もなくなるそうだ。ま、犯罪者なわけだから、そりゃそうだろ」

 その言葉で少しだけ頭が冷えたフレイヤはゆっくりと顔を上げる。オーディンはやはり彼女の方を見ないまま続ける。

「ただまぁ、アイツの影から変なポケモンが抜け出してから、奴の記憶の欠落が激しいそうだ。アンタのことも、俺のことも、一部の犯罪以外の記憶はほぼ全て抜け落ちてる、とさ」
「そう、ですか……」

 それは、諦めの様な、憐みの様な。どちらとも言えない声。恐らくは、もう二度と会うこともないだろう彼を思い浮かべる。
 ただ少なくとも、フレイヤは彼を憎もうとは思えなかった。誰からも必要とされていなかったからこそ、彼は自分を求めた。脅迫めいたことをしたり、実際に暴力を振っていたとはいえ、しかし、誰かを愛して愛されたかった、支配によって全てを手に入れようとしていたその心が、偽りではなかったように今は思えるからだ。と、オーディンがちらりと鳶色の視線を向けてくる。

「んで、まぁ、だな……奴の体から抜け出したポケモンが、もしかしたらアンタを狙う可能性も、なくはないだろ? とりあえず、何でジェライの影の中にいたかは知らないが、少なくともあのポケモンが出て行ったことで、ジェライの記憶が欠落したんだから、関係がないわけがない。それが捕まっていないってことは、つまり、まだアンタの身の安全が保障されていないわけで……」

 どこか結論が見えない言葉を並べる彼を不思議に思い、フレイヤはオーディンへと向き直った。彼もまた、向き直られたことで、逃げ道がないと考えたのか(何の逃げ道化は分からないが)フレイヤのほうへ向きなおる。

「――暫くは、アンタの護衛だ。あんだけごたごたあった上に嫌だとは思うが、その……他に割ける人員もいないってことだからな。」
「あの、なんで嫌だと思うんですか?」
「あー…………いや、何となく」
「もしかして、お姉様からなにか言われたんですか?」

 直観的に尋ねたところ、その効果は劇的だった。オーディンの頬が一気に困ったようにひきつる。そして、その問いに何かいい言葉を返せないか――それが言い訳なのか本心なのかはともかく――言葉に詰まった彼は、再び視線をそらし、曖昧な声を漏らす。
 姉は多分、フレイヤを思っての発言をしたのかもしれない。(誤解があるにしろ)オーディンがフレイヤを傷つけたと思っているし、無理やり彼女を引っ張り回し、しかも、例の場面を見ていたのだとすれば、自分はオーディンを殺したいほど嫌っていると勘違いしているのかもしれない。

 "たかが"姉の言葉一つに振り回されている彼を見て、ふと、フレイヤの中で、何かが吹っ切れる。

「オーディン様」
「あ、何だ――――」

 振り返った彼に不意打ちするように、頬に唇を触れさせる。酷く驚いて目を白黒させる彼に、フレイヤはにこにこっと笑ってみせた。

「私、オーディン様のことを本当に愛してますよ。貴方がそうでなくても――――私は、貴方に救われて、惚れてしまったんですから。だから」

 責任取ってくださいね。
 そう言った目の前の女性を、オーディンはしばらく呆然と見つめる。やがて、

「…………やっぱり、お前もアイツの妹、だな。――俺に責任とれって?」
「はい」

 がしがしと金色の髪を掻きつつ、彼は少しだけ黙り込んだ。それから、手元で遊ぶように持っていたパウンドケーキを、近くの皿の上に置くと、座っていた椅子から立ち上がり、ベッドの上に座る彼女と同じ視線になる。
 それから、鳶色の瞳を細めると、意を決して彼女を抱きとめる。

「どう責任とれるかは分からないが……ちゃんと大事にはしてやる、フレイヤ」
「――――はい」

 むすっとした声で言うオーディンに、フレイヤは笑いながら頷いた。


* * *


 私にとって――――今まで灰色だったはずの世界が、色に満ちあふれた瞬間だった。



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