夜遅く。といっても、実際にはまだそれなりの数の騎士団員が城内警備に当たっていたり、一時的な休憩を取っている時間、そんな時に、フレイヤはオーディンの部屋を訪ねてきた。
足のほうはかなり回復が早いようで、走りさえしなければ、十分歩けるのだという。念のために持ってきたらしい松葉杖と、婚約者から貰ったらしい菓子箱を抱いている彼女を、オーディンは部屋の中に通した。
そして、小さな丸テーブルを挟んで向かい合わせになっている椅子の片方に座らせてやると、彼はおもむろに、紅茶を入れる準備を始める。
「……………………」
「……………………」
そのまま互いに無言のまま、部屋の中は、オーディンが食器を触ることで立てるカチャカチャとした音と、お湯を注ぐ音だけしか響かない。廊下の外から何か音がするわけでもないし、彼のポケモン達は定期健診に出しているらしいので、ボールすらなかった。
準備で集中しているオーディンの背に声をかけるのをためらった彼女は、とりあえず、初めて入るその部屋をゆっくりと見渡した。彼女が座っている場所は部屋の中央なので、全体がよく見渡せるのだ。
(男性の部屋っていうと、お父様と、ジェライ様のお部屋しか見たことないけど)
父の部屋は、酷く殺風景なもので、必要な事務机と椅子に、客を座らせるソファーとベッド、それから必要最低限の文具以外は、本棚すらないやや小さい部屋だ。曰く、必要のないものに目移りしないようにしている、と言ってたような気がする。
一方でジェライの部屋というのは、父とは真逆に、様々な装飾が施され、非常に凝った内装をしている大きな部屋だ。真紅に花の飾りをあしらった床や壁、金縁の窓際はその中でも悪目立ちするものの一つだ。様々な絵画が壁を色とりどりに飾り、扉の左右に設置された本棚にはぎっしりと本が詰まっている。天蓋付きのベッドは音が五人寝転んでもまだ足りないほど大きなものだったし、ソファーなんかは簡易ベッド代わりに使えるほど長大だ。金に物を言わせた装飾、というのは間違っていない。
そして、現在、彼女自身がいるオーディンの部屋。
本来、騎士団員は(数人の上級階級以外は)城外にある専用宿舎に自分の部屋がある。しかし、オーディンは騎士団長の息子というのもあり、また、王子であるゼロとは幼馴染である意味専門の護衛と同じような扱いであることから、彼には城内に専用の部屋がある。なので、彼は自分に与えられたその部屋を好きなように使って私物化している、と部屋の場所を教えてくれた姉は言っていた。最も、彼女もまた、自分に割り当てられた部屋に色々持ってきては私物化してるので、どっこいどっこいらしいが。
(それにしても、これが普通の男性の部屋……なのかしら?)
部屋のサイズは、父の部屋よりも大きいが、しかし、ジェライほど広すぎるものでもない。客間として泊り客に割り当てられる程度の大きさだ。部屋の壁紙や間取りは、姉が借りているという城内の客間と同じである。
そんな部屋の半分を、中が見える質素な食器棚とやはり質素な本棚が埋め尽くしていた。食器棚の中には様々な種類の缶――よく見れば紅茶の缶だ――が置いてあり、赤緑青黄色と、とにかく目を楽しませてくれる。本棚にはずらりと本が並んでいるのだが、見える背表紙タイトルから察するに、バトルや戦闘技術に関するものと、料理や様々なお茶に関するものが、それぞれ半分ずつと言った割合か。窓際には普通のベッドが置いてあり、こちらは本棚や食器同様に普通のベッドだ。
そんな、一見すれば普通に(?)思える部屋の中に、酷く異彩を放つものが二つあった。
(何で、長机と冷蔵庫が……?)
長机は本当にただの長机であり、特別な装飾もなにもしていない。
現在、長机の上には簡易のガスコンロと、ポットやカップなどの紅茶を入れるための一式が揃っている。そのポッドやカップには、細かい模様の施された見事な装飾をしており、何となく高価なものを感じさせる。オーディンは、そこで手慣れた様子で準備をしていた。時折、冷蔵庫から必要なものを取り出している。
それを、フレイヤはぼんやりと眺めていた。手元は、持ってきた箱をがさごそ触っていた。
箱には包装紙がされており、丁寧にリボンもされている。しかし、ぼんやりしていたフレイヤは、箱の入口と思しき部分に手をかけたまま、ぐいぐいと引っ張るだけで、根本的な包みを取ろうとしていない。心ここに非ずといった状態のまま、彼女はただ無為に箱をいじっていた。と、
「なんだ。その箱、開かないのか?」
ふと、すぐ真上から降ってきた声に、フレイヤは酷く驚いた様子で目を見開いた。何時の間にか近寄ってきたらしいオーディンが、フレイヤのいじる開かない箱を見下ろしていたのだ。両手には、それぞれソーサーに乗ったティーカップを持っている。
すぐ傍の小さな丸テーブルの上に置き、彼女に向かって手を差し出してくる。
「開けるか?」
「だ、大丈夫です! ちょっとぼんやりと見ていたら、その、手元が寂しくなっていじっていただけですから……!」
あたふたと苦笑しながら、フレイヤは慌てて箱を装飾する包装紙を無理やり破いていく。訝しげな眼を向けられながらも、フレイヤは包装紙に包まれていた箱を机の上に置くと、上ふたを開ける。
中に入っていたのは、スポンジケーキだった。どこかのお店で買ったらしいカードと共に、一言、メッセージが書かれた紙が入ってある。それを、横から突然伸びてきたオーディンの手があっさりと拾い上げた。
「何々……『帰ってこれることを楽しみにしている by.ジェライ』ねぇ。――っと、悪い悪い。そんな睨むなって」
無言で睨み据えると、彼はひらひらと手を振って、フレイヤにそのカードを手渡した。それを、彼女は大事そうに抱きしめる。それを横目にオーディンは肩をすくめると、箱の中のスポンジケーキを取り出すと、切り分けをするためにか、長机へと向かう。
そんな彼の背中から目を離し、フレイヤは顔を伏せた。それによって下げた瞳が、紅茶の水面に映るものを見つめる。そこにあるのは、何の感情も見いだせない女の顔だ。暫くじっと見つめたそこに、これから行うことを責めるような自分の顔が見えた気がした。耐え切れず、フレイヤが紅茶から顔をそらした。
「あー、もしかしてこの香りの紅茶は苦手か?」
顔を上げれば、彼は丁度、パウンドケーキを並べ終えた菓子皿を持って近寄ってきたところだった。鳶色の瞳を細めて、困ったように頬を掻いている。
漂ってくる香りは、決して悪いものではなく、むしろフレイヤの好みに感じた。しかし、今の彼女の気分としては、何かを飲んだり食べたり、という気にはなれなかった。フレイヤは小さく首を横に振る。
「いえ、そういうわけではないんです。ただ、気分的にちょっと――」
「言っとくけど、俺はケイジ先生みたいに、変な薬は絶対に盛らないからな。なんなら」
言うが早いか、オーディンはフレイヤに差し出した紅茶のカップに口をつけ、ほんの少し飲んでみせる。目の前で突然そんなことをする彼を、フレイヤは目を見開いて見つめた。平気そうにそれを飲んだ彼は、何事もなかったかのように、彼女にティーカップを差し出す。
「ほら。一口でいいから、な?」
思ったよりも熱心に勧めてくる彼に、フレイヤは恐る恐る手を伸ばしてカップを受け取る。僅かに立ち込める白い湯気と香りが、数秒前までの陰鬱な気分を吹き飛ばしてくれるようで、彼女は空色の瞳を不思議そうに輝かせる。そして、少しだけ息を吹きかけてから、そっと口をつけ、
「美味しい……」
それは何も考えず、ただ、口にしてふっと思えたことだ。お世辞でもなんでもなく、ふと心に浮かんだことが、いつの間にか口をついで出てきていた。
どこか間の抜けた感想ではないかと思って、あわててオーディンを見れば、彼は何故か両手を握りしめて、片腕を高々と突き上げていた。思わず呆けたように見つめると、こちらに気づいた彼は軽く咳払いをして背を向ける。
「あ、いやなんつーか…………一昨日も昨日も、俺はアンタのことを分かろうともしないで、無理に尋ねただろ? だから、まず相手に尋ねるには、こっちから相手のことを知る必要があるわけで……とりあえず、ヴィエルにお前の好みを聞いて、それに合いそうな紅茶を選んだんだよ。……まぁ、お菓子はアンタが持ってきてくれたけど」
とぎれとぎれながらも、照れくさい半分、まるで自分に言い聞かせるような言い方だ。そのまま、彼は黙り込んでしまう――――言う言葉が続かないのではなく、見つからないのだろう。この二日間、彼が黙り込んでいるときがあるのは、それは、次に続ける言葉に悩んでいるのだと分かった。
だから、フレイヤは待った。彼の一挙手一投足を見逃すまいと言わんばかりに。これから行うことを自分の中で正当化させるために。彼の言葉の続きを、最後までちゃんと聞こうと思った。――――どこかで救われるような、そんな予感があった。
彼は自分を落ち着かせるようにため息をつくと、フレイヤへ向きなおった。鳶色の瞳を細め、彼女と同じ視線になる様に体を屈める。
「アンタは『自分だけのためにしか動けない私を理解することは出来ない』と言った。それは俺が、アンタと違って『自分の知らない誰かの為に動けるから』ってことだよな」
「ええ」
「でも、俺はこうして、アンタの好み……とはもしかしたら違うかもしれないけど、アンタが『美味しい』と言ってくれる紅茶の味は"理解"できたぜ」
「!」
それは屁理屈なのかもしれない。自分が言っている理解という意味ではない。それは咄嗟に思った。しかし、フレイヤの口から、彼の言葉を否定するものは出てこなかった。
何故か目頭が熱くなる。口の中に沁み渡っていく心地よい感覚と共に、何かが込み上げてきそうだった。
「確かに当人じゃないと、分からない物ってのはいっぱいあると思う。同じ境遇でなければ、理解されにくいものだってある。――だけど、理解しよういう心があれば、理解できるかもしれないだろ。ヴィエルに聞いたとはいえ、こうして、アンタが好きそうな紅茶を出せた」
分からない。何故、この目の前の男性は、赤の他人であるはずの自分に肩入れするのか。
自分の知らない誰かのために動けるなんて、そんなの、おとぎ話の中。自分には縁のない、手紙の向こうの物語で。
「わた、し、は……」
「屁理屈だろうがおせっかいだろうが……俺は、自分の気持ちには正直でいたいんだ。俺は――――フレイヤ、お前の力になってやりたいんだ」
力強い笑みが心を震わせる。これ以上ないほどの誘惑が、ここ最近揺らぐことのなかった決意を大きくぐらつかせる。
――――だから。
オーディンが差し出してきた手を、フレイヤは、しばらくぼんやりと眺める。
やがて彼女は、手にしていた紅茶のカップをその場に置く。代わりに、切り分けてもらったパウンドケーキを食べやすい大きさにちぎる。
そして――――自分の気持ちを、彼女は初めて伝えた。
「オーディン様。私は、貴方を愛してしまいました。だから――――ごめんなさい」
手を伸ばす彼の腕を引くと、顔と顔がぶつかるほどの距離になる。
勢いのままにパウンドケーキの欠片を彼の口へ押し込み、後押しするように唇を重ねあわせる。
"こういったこと"には不慣れらしい彼は、突然のことにさせれるがままに飲み込んでしまう。
――――効果は劇的で、重ねた口の中の舌の動きがゆっくりとなる。
「おま、え……!!」
そっと体を離すと同時に、彼は鳶色の瞳を怒らせたまま彼女を見上げるも、その場に膝をつき――――結局は耐え切れず、彼の体が傾いて、カーペットの上に青年の体が転がる。
そのまま彼が眠ってしまったのを確認すると、フレイヤは、置き捨てられた箱を底を開いた。二重構造になっている箱の底から出てきたのは、装飾が施された儀式用のナイフだ。綺麗に飾ったその鞘を捨てると、銀色の刃がむき出しになる。宝石がちりばめられた金色の柄が、彼女の白い手の中に納まる。
フレイヤは、自分の気持ちを正直に伝えた彼を見下ろす。。
血はつながっていない、赤の他人。たった二日くらいしか共にいなかった、もう二度と会えることはない青年。
おせっかいでお人よしで優しすぎる人。他人の為に自分には理解できないであるものすらも理解しようとその心意気を持った騎士団員。
頬を何か温かいようで冷たい水滴がつたっているような気がしたが、彼女はそれを無視した。
気絶した彼の上に跨ると、ナイフを持った腕を思いっきり振り上げて――――。
赤い鮮血が、彼の顔を濡らし、彼女の顔を濡らした。
* * *
女性が窓を開けると、まるでタイミングを見計らったかのように黒く大きな鳥が飛んでくる。手すりのない窓際に彼女が立つと、その鳥は黒く鋭い脚で彼女の肩を掴み、星が僅かに輝く暗闇へ飛び上がる。
鞘の隙間からぽたぽたとこぼれる血が、暗い夜の城へ吸い込まれるように落下していくのを、女性はぼんやりと見下ろした。
* * *
「あぁ、よく戻ってきたよ、フレイヤ! さぁ、"計画"を始めようか」
血まみれの婚約者を前に、ジェライは酷く上機嫌だった。短剣を握る彼女の左手はだらりと垂れさがっており、ぽたり、ぽたり、と皮膚から赤い液体が、館の廊下を汚していく。心が全く見えない女性を、彼は優しく抱きしめ、同時に、柄から彼女の手を優しく取り外す。
「やはり、君は私の所に戻ってきてくれると思ったよ」
フレイヤは無反応のまま、しかし、その場に崩れるように倒れこむ。それを、ジェライは不服そうに見下ろし、
「――――だが、勝手に出歩くのは感心しないな。ドンカラス」
彼女を連れてきた大柄の黒い鳥――ドンカラスに、彼は顔を向ける。主人に呼ばれてトットッと跳ねるように近寄ってきたそいつは、フレイヤのむき出しの白い足に、黄色の鋭いくちばしを近づける。
瞬間、バヂバヂッと電撃の爆ぜる音。堪えきれず、女性の悲鳴が静かすぎる館の中に響き渡る。電磁波を打たれてしばらく動けなくなってしまったその足を、彼は愛おしそうに撫でた。
「この計画が完成すれば、君は永遠に私と共にある。もうほんの数刻ではあるが……念には念を、ね。まぁ、私を裏切ろうとした罰だと思えば、軽いものだろう?」
「……は…………い……ジェライ様……」
髪を無造作につかまれ、顔を覗き込まれて言われた言葉に、フレイヤはただ頷いた。生気のない瞳と返答に満足した彼は、フレイヤを抱きかかえて歩き出す。暗く静かな廊下を歩きながら、彼の口元には笑みが絶えない。
「君が私の元から離れてしまった次の日に、やっと、目的のものが届いてね。本当ならば、君との結婚式の日に行いたかったんだが――――少々事情が変わってしまった。私のことを嗅ぎまわる連中に手を出される前に、儀式を――いや、計画を完成させたいんだ」
人の気配を感じられない異様な館を、死に掛けている女性を腕の中に抱いている一人の男が、当然のように歩いている。それは言葉にすれば異常なはずなのに、何故か、彼の存在は全く自然だ。
「儀式、と言ってしまうのはナンセンスだろう? この"計画"は、そんな胡散臭いものじゃない。この地方は、他の地方にはない"不思議な力"がある。正しい手順、正しい礼法を踏まえることで、より強力なポケモンを"生み出す"ことができる。――何かを生み出すことが出来るのは、すべてを支配する力のある者の特権だとは思わないかな?」
男の声に熱が帯びる。ぼんやりとフレイヤが見上げる先、男の瞳は異様な感情が渦巻いてるように見えた。
「そう、私は――――全てを支配したい。どんなポケモンも、貴族も、民も、自分の婚約者となる存在も、王族ですら! 私に逆らうものなど出てこぬように、地位に縛られている矮小なこの地方を、私自身が解き放つのだ。そのためには、力が、強力なポケモンが必要なんだよ。分かるね?」
やがて男の足は、屋敷の一番奥に据えられた、一つの部屋の前で止まる。部屋を守る大きな扉には二重のカギが設置してあるが、もはやそのカギは外してしまっているらしかった。男が扉に手をかけて押してやると、重たい音を立てて扉が開く。暗い屋敷の中に、更に何も見えないような暗い部屋が、そこにあった。
「ドンカラス、熱風」
命令に忠実に、ドンカラスが部屋の内部に炎をまとった風を巻き起こす。それによって、部屋の中に設置されていた蝋燭に火がともり、部屋の中が露わになった。
そこは今まで、フレイヤが"保護"されていた部屋だ。鍵のない開かない小さな窓にはカーテンがされており、必要最低限に置かれた椅子や机は、部屋の隅に追いやられている。慰みのようにおかれたポケモンのぬいぐるみが、いくつも踏みつけられて無惨に綿をむき出しつつ、部屋の中に散乱している。
しかし、そんなのよりも際立っているのが、部屋の至る所に書かれた模様だ。古代の文字と複雑な紋様のそれらが、壁という壁を埋め尽くし、物というものにえがかれている。更にその紋様の上には――――ぴくりとも動かない、様々な種類のポケモンが転がっている。
悲鳴をあげる心すら死んでる彼女に対して、まるで自身の知識をひけらかすかのように、彼は説明を続ける。
「儀式の種類によって生贄はことなるが……重要なのは血統だ。それなりの強さを持つポケモンもだが、それ以上に"ポケモンの祖たる存在"の血は、この計画に必要不可欠。――ルアーブル家は王族の血を引く中でも、特に、"ポケモンの祖たる存在"と深く結びついている。最も、その事実を知る者など、ほとんどいない。――――かくいう私も"協力者"によって一年前に知った事実ではあるがね」
ジェライは嗤った。部屋の中央に描かれた文様の上に彼女を置き、ついで、彼女から取り上げた血の付いたナイフを、彼女の足元に置く。そして、懐から小さな小箱を取り出すと、彼は彼女に見せる様にそれを開いて見せた。中に入っていたのは――――小さな化石だ。
「"はかいのいでんし"と呼ばれるものだそうだ。元は"ポケモンの祖たる存在"を基盤に生み出されたポケモンの一部らしい。これは、非常に強力な"供物"なんだよ」
手にした小さな化石を、彼は血塗れたナイフの横に置く。すると、まるでその存在を待っていたかのように、部屋一面に描かれている紋様が淡い光を発し始める。脳髄を揺さぶるような奇妙な音が、部屋の中で響き渡り、唱和していく。
「"ポケモンの祖たる存在"の血が流れる人間を触媒にし、ただの人間の血と、ただのポケモンの血を捧げる。そして、力の基準たる"はかいのいでんし"によって、私は――――伝説のポケモンを、今ここに、甦らせる!」
男の笑い声が響き渡る。光が部屋を少しずつ侵食していく。
「さぁ、蘇るがいい――――"ポケモンの祖たる存在"、ミュウよ!!」
次の瞬間、紋様から沸き立つ光が弱まり、窓ガラスがぶち破られる音が、そして――――思いっきり人を殴り倒し、ぶっ飛ばす音が響き渡った。
* * *
自分の意識が遠のいていくのが分かる。それは計画だか儀式だかで、自分が自分でなくなるからなのか、或いは、血が足りないからなのか。
動かなくなった左腕に半笑いを浮かべて、彼女は黒い天井を見上げた。自分のすぐ後ろから湧き出てくる光は、柔らか味も温かみもない。だが、今の場所とは違う"空気"を持っているようだった。白い光が湧き上がるたびに、自分がここではないどこかへ行ける気がした。
何もかもが嫌になった世界から、自分はいなくなれる。
姉も家族も、誰も関係ない世界へ行くことで――――自分は、永遠の自由を手にするのだから。
それを、自分は待ち望んでいたはずだ。姉が計画に使われることが嫌い、ルアーブル家を存続させるために政略結婚を願った父のために、自分を見捨てていなくなった母の為に、自分は、この世界から消えるのだ。
それを自分は、何の疑いもなく臨んだのだ。一年前からこの数日まで、その信念は、強迫観念は、揺らがずに保ち続けられた。はずなのに。
("あの人"に、謝りたい)
自分を心配してくれた彼に。
あって間もなかった自分を理解してくれようとした彼に。
――――理解しようとしなかったのは、彼ではなく、彼女自身だというのに!
全ては終わってしまったことなのに、それでも、自分は、謝りたくて。
(私は……私の周りの人すら、理解しようとはしていなかった。自分の知る誰かのためにと言い訳をして――――私は、私しか見ていなかった!)
可愛そうな自分を心の中で蔑むために。
姉の代わりに家族の代わりにと言って自分を貶めて、自分を心配してくれる彼を突っぱねることで自分は最悪の人間だと思って。ただひたすら堕落した存在だと思い立って、"悲劇のヒロイン"を気取りたかっただけ。
醜い自分の感情を押し隠してでも、自分は、手紙をくれた姉の様な――――物語の"ヒロイン"になりたかったのだ。
(それももう、終わり)
結局、自分は最後まで、自分のことしか考えられない醜い人間なのだ。
目の前で、自らの為だけに何を犠牲にしてもかまわないと考える男と、自分は何にも変わりがない。
だから同情した。誰にも必要とされない故に、自身が支配者となって必要となる存在になるために。彼の計画は勧められたのだ。そこに惹かれたことは、否定できない。
沸き立つ光が視界を埋め尽くす。その先に、何かが、手が見えた気がした。
フレイヤはぼんやりと無事な右手を持ち上げ、それに向かって手を伸ばし――――温かく大きな手が、彼女の手をしっかりと握りしめた。
「――――フレイヤ」
声。
彼女の手を握り返して名前を呼んだのは、彼女が眠らせたはずの、騎士団長の息子、オーディンだった。
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