「アゼル、俺、場違いじゃない? なんかこう、服とかおかしくないかなぁ……?」
「全員スーツの時点で、おかしいも何もないだろう」
不安な表情が全く隠し切れないスーツ姿のシュウに、同じスーツのアゼルはため息をつく。
天井から等間隔にさがる豪華絢爛なシャンデリアが、バトルフィールドよりも広そうな部屋の中を明るく照らしている。室内には様々な人間とポケモン達が混在しているが、特に目立ったトラブルが起きる様子はなく、比較的、(見た限りでは)参加者たちの表情は明るい。
黒いスーツに身を包んだ男性陣が、今日の試合について舌戦を盛り上がる傍らで、白色と橙色の光を受けた女性たちのドレスは、自ら飾り立てたポケモン達と並ぶたつことで、様々な色を表現している。純白のテーブルクロスの上にはビュッフェ形式の食事が並んでおり、ひときわ目立つ山盛りのフルーツの近くには、一人の少年がそれを見上げ、傍のマニューラ達と会話をしている。
「むう……アイリス。このフルーツ、どれが一番美味いかな?」
『フォル。パーティーはまだ始まっていないんだから、選ぶのは後よ』
『ネイロは、その赤い粒々の奴が良いです!』
『ネイロももう少し落ち着きなさい。……はぁ。あっちのお坊ちゃまが、呆れた目で見てるじゃないの』
そう言って、気の強そうなマニューラに意味ありげな表情で見つめられてしまい、アゼルは仕方なく、フルーツに群がっているキングダム地方四天王フォルの元までやってくる。
「貴様の手持ちは、根に持つタイプなのか」
「おー、アゼルじゃん! 根に持つ? アイリスは『おおきなねっこ』とか持って無いぜ?」
嫌味が全く通じないどころか、変な解釈で首を傾げる姿が、何となく自分の良く知るピンク頭の少女を思い出す。その横から、シュウが恐る恐ると言った調子でフォルへと声をかける。
「ええっと、確か貴方は、スフォルツァンドさん、ですよね?」
「おう! ええっとお前は……あっ、ミュウツーを使うやつ! なぁなぁ、あのミュウツーってお前の手持ちなんだよな? 今って対戦できるのか!?」
『フォールー。この後パーティなんだから、人様に迷惑かけないの!』
シュウを指さすなり、目を輝かせて詰め寄るフォルの腰を、お目付け役らしいマニューラが引っ掴む。長い爪先で傷つけないようにしながらも主人をいなしている手慣れ具合に、アゼルは何となく、日ごろから苦労しているんだなと思わず同情を覚える。と、そのマニューラがふいをアゼルを見上げ、
『アンタも、アタシ達の言葉が分かるのね』
「お前達の周りにはいないのか」
『ポケモンの言葉が分かる人間が多いなら、この子はもっと、普通に、幸せな生活が出来ているわよ』
そんなことも分からないのかと言わんばかりに睨み付けられてしまい、アゼルは軽く咳払いをする。
「そうだな。あまり考えない事を言ってすまない」
『…………私も言い方が悪かったわね。ごめんなさい』
「おぉ〜。アイリスが珍しく頭下げてるー」
『謝る姉さまは貴重です!』
『アンタ達がもっと考えて動くなら、アタシは苦労しないんだけど!』
威嚇するように鋭い爪を光らせて頬を引きつらせるマニューラに、フォルともう一匹のマニューラが、驚きと共に両手を上げてふるふると首を横に振る。その様子に、何とな既視感を感じてか、アゼルは思わず苦笑する。
「似たような奴は、似たような奴に振り回される、ということか」
「ええっと、アゼル、俺は良いけど……いいの?」
何が、と言おうとして、周囲の奇異と好意の入り混じった視線に気が付く。このパーティに参加しているのは、今回の交流試合の関係者である騎士団や協会員以外にも、この地方特有の、権力を持つ"貴族"と呼ばれる者達もいる。モノクロ地方でも似たような権力層の人間達はいるし、口早に交わされる会話は、地方が違えど似たようなものだ。
そんな下らない視線を睨み散らすことなく、アゼルは不敵に笑って見せる。
「上等だ。視線だけで襲われないなら、まだ可愛いものだ。なにより、ここは他の地方だからな。僕がどう見られようと、大したデメリットにはなるまい」
「――フォル、もう来ていたのか」
「おいフォル、まさかお前、もう何か食べたんじゃないだろうな……?」
声がして振り向くと、そこには、それぞれ動きやすそうなドレス服の女性が二人、こちらへ歩み寄ってきていた。
片方はさっぱりと短い黒髪で、服装によっては青年とも見て取れるような凛々しい顔の女性だ。もう一人は、黒い長髪に青いメッシュが少し混ざっており、こちらは大人びた雰囲気と女性らしいたおやかさが伺える。二人の女性の姿を見るなり、フォルの表情が明るくなる。
「ティア、クイン! あっ、クイン、俺はまだ食ってないからな! それにしても――……ティアもクインも、普段とは違う服で、なんか可愛いなー」
「えっ、か、可愛い!? そ、そうか……?」
「あぁ、有難うフォル。お前のスーツ姿は、どうも着慣れていない感じがあるな。襟元が少し曲がってるぞ」
顔を赤くしておろおろとする短い黒髪女性の横で、褒め言葉に慣れた笑みを返したもう一人の女性が、フォルの襟元を正す。如実に性格が表れている二人の女性陣を眺めつつ、アゼルはぼそりと呟いた。
「あいつ、意外と天然たらしか」
「それ、アゼルが言う台詞じゃないと思うよ……」
やがて、フォルの首元を直していた女性がアゼル達へ向き直ると、淀みのない所作で礼をする。
「大変御見苦しいところを失礼しました。そちらは、モノクロ地方の四天王アゼル様と、今回の試合に出られていたシュウ様、ですね。私は騎士団員のアドラスティア、そしてこちらは同僚のクインです。本日は、このパーティ会場内の警備を担当しております。どうぞ、宜しくお願い致します」
「御見苦しいで俺の方を向くってのはどーいう魂胆だおい。ええっと……宜しく、お願い致します」
鋭い視線を向けてもどこ吹く風と言わんばかりの女性ティアの横で、乱暴な口調で男性じみた所作のクインが、頬を軽く掻いて頭を下げる。それにならい、アゼルとシュウも頭を下げる。
「えぇ、こちらこそ宜しくお願い致します」
「あっ、その、宜しくお願い致します!」
「なぁなぁ、ティア。トールはどうしたんだ?」
四人の挨拶など全く関係ないといった調子で首を傾げるフォルに、ティアもまた首を傾げる。
「私は知らないな。陛下や王妃様を城へお連れする直前までは一緒にいたが」
「目立つのは嫌だの何だの言ってたから、来ないんじゃねぇのか? ま、お貴族様もいっぱいだもんなー」
不満を隠すこともなく、好奇の目を向けてくる貴族達をクインが睨み付けると、彼らはそそくさと離れていく。その様子に、アゼルは片眉をあげ、ほぅと息をつく。
「クイン様は、彼らが苦手ですか?」
「あっ、えーっと……まぁ。騎士団と貴族は基本的に仲たがいする関係なんです。俺達は民のためですが、アイツらは自分の私腹を肥やすための者が多いですから。特に、フォルのことをぎゃーぎゃーいう奴が多いし」
「……クイン様。そういった内情は、外の人に聞かせるものではないかと思います」
横で苦言を呈するティアを煩わしそうな表情で見上げ、クインが口元をとがらせる。
その様子に、アゼルは少しばかり意外そうに目を細める。
「スフォルツァンドに対して、貴方がたは、特に不審がらないのですか?」
「どうしてですか?」
「なんでだ?」
二人の女性の呆れと驚きの視線を平然と向けられ、アゼルが僅かに言葉に詰まる。その横で、シュウは一触即発になったらどうしようかと、緊張した表情で事態を見守り、当のフォルはアゼルの質問の意図が分からないので首を傾げる向きを変える。
「彼の、ポケモンと話が出来る能力について、です。普通の人間であれば、ポケモンと話すことが出来ない。人は、自分にない力に対して恐怖を感じる。ですが、貴方がたはそういう風には見えない。それを不思議に思ったのです」
眉間に皺をよせて厳しい表情で告げるアゼルに対して、ティアとクインの回答は即答だった。
「私たちにとって説明ができない現象ですが、それでフォルという人間性が現れているわけではありませんので」
「だな。俺だって、ポケモンと喋れる方が面白そうだと思うし」
丁寧に微笑むティアと、全く意に反すことなく同意するクインに、フォルはにひひと自慢げに笑う。そんなフォルの横で憮然とした表情の心配性のマニューラへ、アゼルは僅かに口角を上げて問う。
「マニューラ。君の主人は、少なくとも今は恵まれているようだが?」
『それでも、人間は人間ですもの。貴方とも、フォルとも違うわ』
そう言いながらも、満更でもない様子でそっぽを向くマニューラに、アゼルは軽く肩を震わせ、他の四人は不思議そうな表情をする。
ふと、音もなく周囲の明かりが落ち、次いで、部屋の入口の扉にスポットライトが当たったかと思うと、厳かな音を立てて扉が開かれる。
スポットライトの下には、二組の陣営が立ち並んでいた。片や、キングダム地方の人間は見慣れている国王クィルイエスと王妃ヴィエルクレツィア、そしてその傍には――先ほどの交流試合の服装ではない、黒い騎士服に身を包んだキングダム地方四天王長オーディンが控えている。
片や、パーティ出席者の中では割合の少ないモノクロ地方の人間にはお馴染みの、ポケモン協会長クールと、協会四天王のひとりメイミに、その傍に髭を口元にたたえて柔らかな笑みを浮かべる男性の姿があった。それが協会副会長のレジェンという男であり、今回の試合で司会者をやっていた人間だと気が付くのはどのくらいかと思いつつ、何故そこに彼がいるのか理解できずにアゼルは首を傾げる。
入り口に現れた今回のパーティーの主催ともいえる者達の登場に、会場が拍手に包まれる。その中、クインは肩肘でフォルをつつくと、眉をひそめて耳打ちをする。
「おいフォル、お前、アレに行かなくていいのか?」
「うん。ゼロが、ディンがいるから良いって」
「オーディン様がそういうのであれば、何か理由あっての事でしょう。悪目立ちをしないにこした事ありませんからね」
あっけらかんとした表情で頷くフォルに、クインは何か言いたげな表情だったが、ティアの言葉にそれもそうかと頭を掻く。
一方のシュウもまた、姿を現した者達を見た後、アゼルに問いかける。
「アゼルも、そういえば一緒にいなくて良かったの?」
「あんな悪目立ちする場所、僕が行くわけないだろう。それよりも、何故、あの人があそこにいるんだ。――手筈では、アイルズがあそこにいたはずだが?」
「俺に言われても……。さっき、カオスを貸して欲しいって言うから預けたけど」
「カオスを? ますます意味が分からないが、あの人なりに何か考えでもあるのか?」
ますます意味が分からず、アゼルは再び、人垣の向こうに見えるクールたちに目を向けようと背筋を伸ばし、
「レジェン様自ら出たいと懇願されたため、場所を代わっただけですよ」
背後からの声にシュウとアゼルが振り返る。
そこには、見知った協会四天王のひとりアイルズと、もう一人、落ち着いたドレス姿の女性があった。それが、対戦相手の席で見かけた女性だと気付いたときには、彼女は優雅な仕草でドレスの裾を持ち上げ、その場で礼をする。
「改めまして、アゼル様にシュウ様。私はフレイヤ=ルアーブル、キングダム地方四天王のひとりにございます。先の交流試合では、大変なご活躍ぶり、しかと拝見させていただきましたわ」
「フレイヤ様こそ、様々な飛行ポケモンを駆使した戦術はお見事です。特に、最後のムクホークによる翻弄は、伝説ポケモンに見劣らない勇敢さでした」
「アイルズさん、俺、こういう時ってなんて言ったら良いんですか!?」
「シュウ君、そんなに怯えなくて大丈夫ですよ。彼らの会話はただの社交辞令、挨拶みたいなものですから」
「そうだぞ、シュウ。俺、全然何言ってるか分からないからな!」
握手を交わしながらおっとりと話をするアゼルとフレイヤに、シュウが泣き縋るようにアイルズへ懇願して苦笑される。傍にいたフォルに至っては、ひょっこりとシュウの横にやってくると、よく分からないガッツポーズを決める。
そんなどたばたな調子に、フレイヤに会釈をしたのも束の間、半眼になったアゼルがアイルズを見上げる。
「それで結局、何でまた自分で出たいなんて言いだされたんだ、あの方は」
「さて。お尋ねした時には『色々あるんだよ』と言われてしまったもので、私にも理由は分かりかねますが」
「うーん、父さんだから、あれも悪ふざけの一種……いや、それって副協会長としてどうかと思うんだけど……」
呻くシュウとは裏腹に、部屋の奥まで進んでいた地方のトップは、既に立ち位置についていた。
そして、互いに友好関係をアピールすることも兼ねた握手を交わし、それによって会場のあちこちから拍手と落ち着いた歓声が沸きあがる。やがて、国王が司会の男からマイクを受け取り、パーティ会場の方へ向き直ると、会場もそれに合わせて静まり返る。
「皆様、本日はお集まりいただき、誠に有難う御座います。我々キングダム地方は、今後とも、モノクロ地方と共に、強固な信頼関係を築いていきたいと考えております。そのためには、皆様のご協力が何よりも必要不可欠です。どうぞ、今後とも宜しくお願い致します。――それではどうぞ、しばしのご歓談をお楽しみください」
凛とした声で宣言する国王の声に、ひときわ大きな拍手が響き渡った。
*****
「カオス。女性から『お礼をしたいので、パーティを抜けてこっそり中庭に来てくれないかしら?』と言われた時の対処方法で、最も正しい方法は何だと思う?」
「警戒」
「君にしては珍しい真面目回答だけど、合格だ」
初夏手前の心地よい夜風が吹き抜ける庭で、レジェンはミュウツーのカオスへにこりと微笑み、それから前方へを目を向ける。
こんこんと流れる噴水と冷たい月明かりを背にして、その女性は佇んでいた。風を受けてたなびく金髪を手ですく様は、それだけ見れば絵になるような光景だ。実際、何も知らなければ、レジェンもそういった褒め言葉を投げていただろう。自分の横で視線を女性から外せないまま体をこわばらせる元相棒とは正反対に、レジェンは陽気に手を挙げて声をかける。
「やぁやぁ、ヴィエルさん。今回は僕らの提案に乗って、交流試合を開催してくださり、本当に有難う。いや……――それとも、ミュウ・オリジナルに多大なる感謝を、と言ったほうが、貴方は喜ぶのかな?」
『へぇ。そこの劣化コピーから僕の事を聞いたのかい、人間?』
ふわりと笑う笑顔とは正反対に、口から洩れたのは嘲りだ。特に気にした風でもなく、レジェンは肩をすくめる。
「まぁ、そんなところだね。あぁ、この横のミュウツーからは聞いたけど、協会長からは何も聞いていないよ。彼は、こういったことに私を巻き込みたがらなくてね。もちろん私だって、常識の範囲外で起きていることに干渉するのは、好きじゃあない。ましてや、ポケモンの考えることというのは、僕ら人間のあずかり知らぬところだからねぇ」
『ふぅん? じゃあなんで、わざわざ"僕"を呼び出したんだい? 知らないふりをして、ただ"彼女"のお礼を聞けば、何事もなかっただろうに』
その目は純粋な興味と言ったところか。丸々とした瞳の奥に自分の姿が映っているのを確認し、レジェンは僅かに目を細める。
「貴方はカオスに喧嘩を売られた。性格を聞いた限りじゃ、貴方はどうも根に持つタイプな気がする。だから……ポケモンバトルでもしたら、ちょっとは気晴らしになってもらえるかなと思ったのさ」
隣に並び立つカオスに目配せをし、レジェンは肩をすくめる。カオスの方は、厳しい表情を変えることなく、鋭い目でソレを見つめる。
その言葉に、女性の姿をしたソレは目をしばたく。それから、片手で口元を覆い、肩を震わせて俯き、
『あぁ、そうかそうか、そうだね、うん。全く正しい判断だ。僕も、なにも知らなければ、その方が良かったな。本当に、そう……――残念だ。君は、気が付くのが遅かったなぁ』
そういって、ソレがニタリと嗤った瞬間、一人と一匹を取り囲むように、不可視のバリアーが強固に張り巡らされた。
*****
会場に父の姿が無いと気が付いたシュウは、アゼルやフォルたちの会話もそこそこに切り上げ、彼らの姿を探し始めた。やがて、何人かの知り合いやメイドたちの話を聞き、彼が中庭に向かったことを知ると、シュウは気づけば足早に中庭へと向かっていた。
何故自分が、普段は気にしないはずの彼らを気にしていたのか。それを、シュウ自身はよく分かっていない。ただ、"なんとなく"そうしないと駄目な気がしたのだ。そうでなければ、
(そうじゃないと……なんだろう、不安、な気がする)
父がいない事、相棒だと称する保護者がいない事、それに対する自身の素直な感情は、不安だ。
胸中で一人心地つつ、シュウは足取り迷うことなく中庭を目指す。
大広間でパーティを催していることもあり、夜の廊下に人の姿は見当たらず、静まり返っている。窓の向こうに見える月や星の光が暗がりの足元を照らし、それが道標のように思えてくる。これを辿れば、自分の進むべき道が見えてくるのではないか、と。そんな夢想に追いやられている自分に、シュウは歩きながらも小さくため息をつく。
そもそも、今の感覚は、一か月ほど前から僅かに感じていたものだった。
元は、モノクロ地方でレジェンの代わりとして出場が決まったかと思いきや、唐突に、一週間後にマスターランクになるための試合をすると、父から言い渡された時からだ。
その話を聞いて、シュウが感じたのは、まさに今感じている物の塊だった。試合まで全く落ち着きが無く、心がぽっかり空いてしまって、他の事があまり考えられない。それはきっと、不安と言って間違いないのだろう。
実際、試合相手ということで立ち並んだテイルとクールを見て、その気持ちは一層強くなった。とにかくその場から逃げ出して、何も知らなかったふりをしたかったが、自分は見ているだけにするとふんぞり返る保護者や、自分を見続けてくれていた兄のような人を前に、背を向ける真似は出来なかった。
そしていざ試合をしてみて思ったのは、相手に勝てていることへの安堵ではなく――何故勝てているのか分からないという困惑と、負けてしまったら失望されるかもしれないという恐怖だった。
相手が手を抜いているはずないと分かりながらも、シュウはあっさりとテイルを下し、続けてクールとの試合を行う。
肌を焦がすような熱気と火の粉が頬をかすめる。技同士がぶつかり合い、爆炎が上がる中、煙の向こうを突き抜けた技が相手のポケモンを一閃する。立て続けに放たれる炎技を鎮火し、あるいは惑わして、シュウの手持ち達はクールの手持ちを翻弄して倒していく。
自分の指示が間違っているとは思えない。的確な指示を出しているからこそ、自分は、モノクロ地方のトップとして君臨する協会長を押しているはずだ。
だというのに。
この試合に勝ってしまったら、自分はもう、この先を進む道標を見失うような気がした。
そう思った次の瞬間、シュウは、最期の一撃を放とうとしていたギャラドスへの指示を僅かに遅らせていた。水を纏ったギャラドスの滝登りは、シュウのほんのわずかな命令のズレによって、空を切る。そして、辛うじて体力の残っていたバクフーンのブラストバーンがギャラドスを大空へと高く吹き飛ばす。そして、落下と共に地面に叩き付けられて動かなくなったのを確認し、バクフーンもまた、力尽きて倒れてしまう。
それで試合は終わりだ。互いに最後の一匹が倒れてしまった以上、戦い続けることはできない。そして、最後に一瞬でも自分が戸惑った結果なのだから、試合はほぼ負けたようなものだ。シュウは耐え切れずに、クールから目を逸らす。
はたして、自分の前で厳格な表情であった男が僅かに口を開いて、
「認めよう、シュウ。君には、マスターランクを与える」
耳を疑った。
思わず顔を上げれば、声を発した協会長は厳格な表情でこちらを見つめている。彼の傍にいるテイルが腕を組んだまま意外そうな顔でクールを見上げ、審判をやっていた父も、やはり同じような表情で感情に乏しい男を見る。
「クール、いいのかい?」
その問いには答えず、彼はシュウの目の前までやってくる。威圧しているわけではないのだが、身長差と普段から相手を威圧させるかのような表情不足に見据えられ、思わず身がすくむ。彼はやや迷った表情でシュウを見下ろし、
「最後、指示が僅かに遅れた件について、その理由を、私に推し量ることはできない。だから君なりに、どうしてそうなったか、その理由を考えるといいだろう。そして、これだけは覚えておいて欲しい。私が君にマスターランクの称号を与えるのは、君の力量が、ランクに見合っていると判断したからだ。そこに、勝敗の勝ち負けは関係ない」
言われた内容は分かるのに、何を考えたらいいのか分からない言葉に、シュウはただ、茫然としてしまった。
結局、話としてはそれきりだった。父親からもう一戦行うか持ちかけられたのを、半ば逃げる様にして断り、戦えなかった不満を言ってくる保護者を適当になだめて、そうこうしている間は、不安なんてものをすっかり忘れていたはずなのだが、
(理由を考えるって、考えたとして、どうすればいいのさ……?)
最近、一人でいるとそんなことを考えがちだ。
言葉が詰まったの理由など、目標が見当たらなくなってしまうからというのは分かっている。
ポケモントレーナーであれば、誰もが一度は高みを目指したいと思うもので、シュウもそれは例外ではない。だからこそ、トレーナーとして最高の実力であることを示すマスターランクを取得することは、シュウにとって一つの目標だった。周りにいる知り合いは、誰もかれもが規格外で、そんな中で自分の実力が通用するとは思えないような中をもがき、自分は確かにそれを手にしたのだ。
そして、実際にランクを手に入れて――シュウはどうしたらいいのか分からなかった。
自分の知る地方の中で、最も実力ある者達は、シュウの行動を評価してマスターランクという評価を与えた。
しかし彼らは、その後の道筋を「教えてはくれなかった」。彼らはそもそも、強さに対して興味があるわけでない。
彼の傍にいる保護者は「気づいてくれる様子はなかった」。強くなって彼を従えるとは考えていても、その道筋を訊ねるのは意味が無いと、本人が言っていた。
自分でも、自分の目標というのは自身でしか決められないものだと重々理解している。
だから、色々な人と戦うことで自分に足りない物を探そうと思った。しかし結局、今回の交流試合でも、自分に不足している物が何かを見出すことは出来なかった。
そんなことを煩悶している内に視界が開け、話に合った中庭とやらに到着する。整備された芝生の中央には、自分の背丈より高い噴水が鎮座しており、こんこんと水がわき出ている。特に目立った障害物のないその場所は、軽く見渡した限り人の姿はない。
「確かこの辺りに父さん達がいるって聞いたんだけど……」
「あら。貴方は確か、シュウ君、だったかしら? こんばんわ。こんな何もない庭園に、何の御用かしら」
声のした方に顔を向けると、噴水の陰から、何時の間にか一人の女性が姿を現した。月明かりだけの中庭にもかかわらずハッキリと見えたその女性の姿に、シュウは一瞬首を傾げるも、その立場を思い出した瞬間、慌てて頭を下げる。
「ヴぃ、ヴィエルクレツィア王妃様!? はっ、はい、俺、シュウって言います! ええっと、その、父、あっ、レジェン副協会長を探していて……!」
「あら、私も彼の事を待っていたのよ。でも、まだ来ていないから、一緒に待っていましょう!」
「いやその、い、いないようなら、俺は戻ります! 二人の話し合いを邪魔するつもりはないので」
「えー、別に大したことじゃないわよー。今回の交流試合、提案してくださって有難う御座います、ってお礼を伝えたいだけだもの。だから、待ってる間に少しお話しましょう。ね? ね?」
マイペースな調子で妙案を思いついたと言わんばかりのヴィエルクレツィアに、シュウは半ばあきらめて首を縦に振る。
「わ、分かり、ました。俺で良ければですけど……」
「有難う! そうそう。それで、気になっていたことが一つあるのだけれど――シュウ君って、マスターランクを持っているのだから、とても強いんでしょう? だからね、どういった理由で強くなったのかしらと思って」
「えっ」
あまりにも予想外で、しかし、自分の今の気持ちの中で一番悩んでいる部分を問われ、シュウは思わず固まる。ヴィエルはそれに気が付くことなく両掌を合わせ、ずいっと顔を近づける。
「うちの四天王のフォルもね、とにかく強くなるぞー! って言ってるんだけど、一向に強くなれないことを悩んでいるのよ。私としては、明確な理由が無いから無いんじゃないかと思うんだけど、シュウ君はどう?」
「その…………俺にも、特に明確な理由とか、ないですよ」
「えっ、そうなの? トレーナーをしてきてから、ずっと?」
「いえ。ここ最近、ですね。なんだか……何を目標にしたらいいか、分からなくて」
何故自分は、知り合ったばっかりの人間に心情を吐露しているのだろうか。
それをシュウ自身が不思議がる前に、ヴィエルがうっすらと微笑み、その思考を遮るように言葉を紡ぐ。
「目標って自分で考えるのは難しいものねぇ。だからこそ、周りの人からの助言とか欲しいなって思うのは当然よ! そうね……――それじゃあ、私からちょっとアドバイスしてあげるわ!」
「えっ、い、いえそんな! これは自分の問題だと思ってますし」
「ふふっ、気にしないで。私のは、ただの参考程度にしてほしいだけ。それに私、貴方にとても"感謝しているもの"」
「え?」
その言葉の意味をシュウが尋ねる前に、くるりと目の前で回ってみた女性は、両腕を広げて、楽しそうにほほ笑む。
「先が見えないのなら、今のあなたにとって最善な道を、それを目標にすると良いと思うの。貴方にとって、今の目標って何かしら?」
抗うことすら忘れる優しげな声が耳朶に響く。
違和感もなく、するりと、シュウがそれを口にする。
「カオスに、認めてもらうこと……」
「そう、"それ"に認めてもらいたいのね。なら」
そっと、女性の白い手が彼の胸元を指さし、彼女は柔らかく微笑む。
「強くなるといいわ。誰よりも強い、高みを目指して、誰にでも勝てるようになる、なんてどうかしら?」
それは、明確な道標に見えた。
両眉をあげて、思わず目の前の女性を見つめると、彼女がそっと唇に人差し指をあてがう。
「大丈夫。きっと貴方なら、とっても強くなれるわ。そして何時か貴方は、その"強さ"でみんなに認めてもらうことができるの」
それはとても甘美で、輝きに満ち溢れた言葉で、何よりも、先ほどまで感じていた不安が嘘のように取り払われる魔法の言葉で。
そして――……そうすることを"定められた"ような、呪いにも似た祝言をはらんでいて。
次の瞬間、様々な事が同時に起きた。
何かが破砕する音が響き渡り、突然、何もない空間から現れたミュウツーが、一目散にシュウとヴィエルの間に割って入り、そのままシュウを引っ掴んで上空へと退避する。同時にヴィエルに対してシャドーボールを複数投げつける。
しかし、それを遮るようにして現れた巨体が、シャドーボールを太い両腕で振り払う。爆発音が庭園を吹き抜け、湧きあがった煙が庭園に広がり、暫くも経たないうちに霧散する。ヴィエルの傍には、いつの間にか漆黒の騎士服の男が、敵意をはらんだ目でカオス達を見上げている。
あまりにも突然の事態にぽかんと口を開けていたシュウだったが、すぐさま事の大きさに顔を真っ青にし、自分を抱えるカオスの片腕を引っ掴む。
「ちょっ、ちょっとカオス! 何してんのさ!?」
「シュウ。お前、アイツに何言われた? アイツはお前になんて言いやがった!?」
抗議の声を上げるシュウ以上に、どこか怒りと焦りを見せるミュウツーのカオスは、シュウの頭を強くつかんで自分を見上げさせる。
「落ち着いてよ! 別に何も言われていないってば! カオス達がどこに行ったか聞いただけで」
「嘘をつくな! アイツは、お前を"呪おうとしていた”。絶対、お前に何かやったに決まって――」
「本当に何もないってば! カオス、俺の話をちゃんと聞いてよ!」
力強い声と共に再度強く片腕を叩かれ、流石のカオスも黙り混む。やがて彼は、掴んでいた頭をぺしぺしと軽くたたき、小さくため息をつく。
「……本当に、変なことは何も話していないんだな?」
「うん、そうだよ。って、そ、そういう問題じゃなくて、下! 下は……!!」
戦々恐々とした様子でシュウが地上に目を向ければ、先ほどよりかは殺気が無いものの、警戒に満ちたオーディンと怪訝そうなカビゴンが、一人と一匹を見上げていた。
「どういうことだ? 君みたいな子が、どうしてこんな」
「なるほど。騎士団長と合法的に戦うなら、そこの女性を適当に攻撃すればいいのか」
声と同時に、暗がりの廊下から複数のシャドーボールが飛んでくる。今度の不意打ちは半ば予想していたのか、オーディンのボールから出現したムクホークがエアスラッシュを放ち、黒いエネルギー弾を切り裂く。聞き覚えのある声に、彼は思わず顔をしかめた。
「はぁ……アンタも、一体どういうつもりなんだ?」
攻撃が飛んできた暗がりを睨みつけると、闇の中から昼間に姿を見た男――ファントムが姿を表す。昼の時には纏っていた黒いマントを着ていない彼の横には、サーナイトが静々と付きそっている。警戒を向けてくるオーディンに対して、ファントムは平然とした顔で頷く。
「なに、簡単なことだ。今日の昼間、邪魔者が入って出来なかった戦いを、今ここで行いたいだけのこと。そこの戦闘狂なエスパーポケモンも、大方、それが目当てだろう」
「そんなことのために、わざわざ王妃を狙うなんて、地方間の問題とか考えないのか!?」
全く思考が理解できないオーディンが乱入者を睨み付けていると、騒ぎを聞きつけたらしい他の四天王達が中庭へと駆けつける。到着するなり開口一番、アイルズはファントムと上空のカオスをそれぞれ睨み付けた。
「何をしているんですか、貴方達は……! 全くもう、どうして他所に来てまで、そう節操のない事を!」
「アイルズか。丁度、王妃を守るという騎士団長とやらにバトルを吹っかけていたところだ。どうにも、王妃に敵意を向けると、自動的に戦いをしてくれるようでな。それに、下らない話し合いよりも、貴様もそろそろ体を動かしたいだろう? なに、今なら、実に良い口実がつく。協会四天王のひとりが、騎士団長の一人と戦おうとしている。故に、"それを止めるために"ポケモンバトルができる、とな」
普段なら聞き流すような軽口のはずだが、アイルズはファントムの言葉に逡巡した表情で口元に手を添える。そして、
「……口実があるなら、私も参加するとしましょう。特に、そこの騎士団長様には、お嬢様に関する"落とし前"をつけていただかないと、私の気が済みません」
「何の落とし前だ!?」
「あ、じゃあ俺もやるー! やろうぜ、ポケモンバトル!」
「フォル、お前、遊びじゃないんだからな!?」
わいやわいやとした騒ぎの様子に、アゼルは片手で額をおさえ、フレイヤは楽しそうに笑っている。ひょっこりと現れたロキは、周囲を軽く見渡しつつ、ヴィエルたちの傍までやってくる。
「ヴィエル様、お怪我はありませんか?」
「――……えぇ、大丈夫よ。それにしても、こんな楽しい状況になるなんて、思いもよらなかったわねー! ふふふっ、交流試合では見れなかった互いの四天王長同士の戦いよ。ってことで、他に、このオーディン騎士団長と戦いたい人は、じゃんじゃん私を狙っちゃっていいわよー!」
「お前も! 狙われたのに、何でそんな調子なんだよ!」
余りの能天気に思わず怒鳴ると、彼女はふんわりと微笑み、
「だって。なにがあっても私のことを守ってくれるんでしょ、騎士様は」
パチンッとウィンクをしてみせる王妃に、オーディンは開きかけていた口を閉ざし、自身の頭を掻く。
やがて小さなため息とともに、ボールを構えながらファントムたちに向き直る。
「ったく、何で俺の回りは面倒な奴なんだよ! 分かった、そのポケモンバトル、買ってやる!」
「ちょろいですねー、隊長」
「お前も敵か! 今ここで殴って良いか!?」
いつのまにか喧々とした会話で盛り上がる中庭を、シュウはカオスに抱えられたまま見下ろし、目細めて顔をこわばらせる。
「あぁー……なんか乱戦になってる……」
「おーい、シュウ、カオス。こっちだよ、こっちー」
「父さん?」
いつから来ていたのか分からないが、中庭にいたレジェンの声に反応し、カオスは彼の傍に降り立つ。地面に降ろされたシュウは、目の前に立つ父親を見上げ――ようとして、その頭をわしゃわしゃと撫でられるように抑えられ、思わず視線が下へ向く。
「ちょっ、ちょっと、父さん!?」
「とりあえず大丈夫そうかな、カオス?」
「……分からん」
「そっかぁ」
ぐりぐりと頭を撫でている間に、意味の分からないやり取りが頭上で交わされる。何となくもやもやとした気持ちになり、思わず父の手を振り払おうとしたところで、彼の大きな手が離れていく。眉間に皺を寄せて見上げれば、飄々(ひょうひょう)とした表情の父親の顔があり、シュウは口元をとがらせた。
「全く、どこいってたのさ、父さん。ヴィエルクレツィアさんも、父さんにお礼を言いたいのに来ていない、って言ってたし」
「まぁまぁ野暮用があったんだよ。――ところでシュウ。お前、マスターランクの時に、クールから言われたことは覚えているかい?」
シュウは目を丸くするも、真剣な父親のまなざしを受け、言葉を選びながら慎重に答える。
「ええっと……指示のタイミングがずれた理由、だよね。そのことなんだけど、さ……――俺、マスターランクをとったら、次にどうしたらいいか分からなくなるかも、って思ったんだ。だから、マスターランクまで貰ったら、次の目標を見つけられないんじゃないかって。それで、攻撃タイミングがずれた。――結局ランクを貰っちゃったから、意味はなかったんだけどさ……。それでここ最近まで、何を目標にしたらいいんだろうって、ずっと悩んでいた」
「お前がレジェンと戦うのを嫌がったのは、考えたまま戦えなかったからか」
カオスの言葉に、シュウはこくりと頷く。
「うん。でも、今日のポケモンバトルをやって、俺、改めて考えたことがあるんだ。人前でポケモンバトルをやって、声援を受けて――すごく、楽しかったんだ。だから」
レジェンとカオスが見守る中、シュウは僅かに視線を落として息を吐き出してから――真剣なまなざしで二人を見上げる。
「俺、ポケモンマスターを目指すよ。色々なポケモンを捕まえて、リーグチャンピオンになって、カオスに、"みんな"に認めてもらえるようなトレーナーになる。それが、俺の今後の目標だよ」
その言葉に――……カオスはニヤッと笑うなり、がしゃがしゃと乱暴な手で主人の頭を撫でつける。突然のことに、シュウは目を丸くする。
「ちょっ、ちょっとカオス!」
「ったく、大それたことを言うと思ったら、そんな事かよ! あーあ、心配して損した! おら、今後はビシビシやってくからな!」
「じ、自分で少しは努力するよ! あーもー、そんなにぐしゃぐしゃしないでよ……!」
カオスの撫で回しから逃げるように身をよじらせるシュウを面白がってか、カオスは主人を手元に引き寄せ、楽しそうな表情で頭を押さえつけながら掻きまわす。
一方、レジェンは二人の様子を静かな瞳で見つめていた。それが、彼が滅多に見せない、焦燥を押し隠した冷徹な表情であることを、目の前の一人と一匹は気づく様子が無い。やがて、彼は小さくため息をつくと、
「シュウ」
「何、父さん」
「困った時にはテイル君を頼りなさい。――何時かきっと、私とクールのような感じになるよ」
「う、うん? 分かったよ」
意味が分からずに不思議そうな顔で頷く息子に、父親は、やはり困った表情で笑い返した。
――後に、"呪い"に縛られた彼は、その言葉の意味を知ることとなる。
*****
人の寝息すらも静まり返っているであろう夜更け、謁見の間で向かい合う二人の男は、互いにいずまいを正していた。
「約束通り、これがミュウの化石です。私の願いは、『ミュウの化石をキングダム地方の国王に返還すること』ですから」
「――……確かに。"賭けの対価"を受け取らせていただきました」
差し出されたケースを受け取ったゼロは、特に何の変化もない状態について、内心だけで安堵する。今ここで何も発生しなかったということは、つまり"問題が無い"ということだ。
一方、協会長クールは、化石を手渡した後も眉間に皺をよせていた。
「私からの用事は以上ですが……随分と大変な交流試合でしたね。貴方は、これを予期していたのですか?」
「そんなことはありません。私の力は、必ずしも確定された未来を見通すことはできません。ただ、どういう結果であれ、ミュウの化石を手にすることになるとは思っていました。それぐらいは、貴方も予期していたのではありませんか?」
「どちらの願いも一緒ですから、それは予期ではなく、決定事項に辿り着くためだけの儀式でしょう」
クールがため息をつく様子に、ゼロは困ったように微笑み――感じ取った気配に、口角を下げ、目を僅かに逸らす。異変に気が付いたクールが、ゼロを不思議そうな顔で見つめる。
「クィルイエス国王?」
「クール協会長。大変お手数ですが、今しばらくおつきあいいただきたい。なにせこれから、もう少し、面倒なやり取りがありますので」
その言葉に反応したかのように、部屋の扉が重たい音を立てて開かれる。
そこに立っていたのは、白い夜着を纏った金色の髪の女性だった。ソレはドレスの裾を持ち上げて頭を下げると、扉を閉め、静々とした様子で歩み寄ってくる。その人物が何であるかを知っているゼロは、自然、顔をこわばらせてソレを見据える。
「わざわざこのタイミングで訪れるとは、悪趣味だな、ミュウ」
『アンタのその顔を見るためにわざわざ足を運んでやってるんだよ。――おやぁ、また会ったね、協会長さん。君がいるところでこのやり取りが出来るのは、とても楽しい事態だ』
笑みを浮かべてワザとらしい様子で片手をあげる女性の軽口に、ゼロが苦々しい表情を何とか押し殺し、鋭い視線を向ける。
「今回は随分と顔を出し過ぎではないか?」
『あっちこっちから喧嘩を売られているもんでね。本当、君だけでも嫌になっちゃうっていうのにさ。ねぇ協会長さん?』
「さて。私には、貴方の考えを計りかねますので」
声をかけられたクールは、思い当たる節は無いのか、首を軽く横に振る。ぱちくりと女性は目を瞬くも、それ以上深く追及するつもりもないのか、クールから目をそらす。
そして、自分の前で玉座に腰かけている男に向かい、白い手をさし伸ばした。
『それじゃあ返してもらおうか、僕の体の一部』
「対価を」
『本当、バカの一つ覚えみたいにそれを言うんだよねぇ、ははは。――……当然、ヴィエルクレツィアの安全だよ。いつか訪れるであろう災厄より、僕が彼女を"必ず"守る。お前には出来ない守護を、祝福を、僕だけが唯一彼女に与えることができるんだ』
バリンッとガラスが砕ける音を、ゼロはどこか他人事のように聞いていた。ガラスケースを握っていた右の手のひらをあけると、砕かれたガラスの破片と零れる血に混じって、むき出しになった化石がケースの中から姿を現す。掌にささるガラスの破片に痛みを感じないが、傍で見ていたクールが、流石に顔をしかめて声をかける。
「っ、クィルイエス国王、手が――……」
『あぁ、放っておいて大丈夫だよ。何せ、彼はこの地方の"担い手"なんでね。普通に死ぬことは無いし、傷がつくこともない。――もっとも、この地方を出なければ、だけどね』
面白がっているミュウの言葉に、クールがそれ以上のことは言わずに黙り込む。
ゼロは化石に直接手を触れ――そこから聞こえる憎悪と怨嗟の声すらも全て聞き流し――女性に向かってそれを放り投げる。乱暴な渡し方に対して、ソレは特に文句を言うでもなくあっさりと掴みとる。そして、
『いただきます』
人差し指程度の長さがあるそれを、女性はまるっと一飲みしてしまう。
あまりにも状況を逸脱した光景は、普通の人間が見れば、自身の頭がおかしくなったと疑いたくなるものだろう。しかし、今その場にいる者達は、誰もかれもが「普通ではない」存在だ。クールは相変わらず表情の乏しい顔でその様子を眺め、ゼロは口元をきつく噛みしめて殺意にも似た瞳を向けている。
こくりと、女性の細い喉が音を鳴らすと、彼女はうっとりとした表情で、唇に人差し指を立てて笑む。
『ふふっ、ごちそうさま。全く、これも君の"布石"の一つだと思うと腹立たしいけど、いいよ、偶には乗ってあげるさ。彼女についてだけは別だからね』
「用が済んだなら、さっさと失せるがいい。これ以上、彼女に負担をかけるな」
『それはこっちの台詞だよ。君の存在こそが、彼女の重しになっているんだから。ま、そこにいる協会長さんに免じて、今日はこれ以上の嫌味は止めておこうか』
女性はくるりとスキップでもするように身をひるがえして扉の前まで向かう。やがて、扉の前までやってくると、彼女はクールへと向き直り、夜着の裾を掴んで一礼する。
『それではごきげんよう、モノクロ地方の協会長、炎よりいでし獣王、クールなる者。オリジナルミュウとして、貴殿の行く先に、幸有らんことを願う』
朗々とした女性の声は、優しくも凛とした響きで謁見の間に響き渡る。最後まで渋面顔だったゼロの傍で、クールは儀礼的に一礼する。それに満足な表情を返し、ソレは今度こそ部屋から出ていく。軋み音を立てて扉が閉じられ、暫くの間、部屋の中を静寂が包み込む。
ゼロは一度だけ小さく息を掃出し、目頭を軽く抑え込む。やがて、気持ちを落ち着かせたところで立ち上がり、クールの方へ頭を下げる。
「申し訳ない、クール協会長。貴方がいてくださったおかげで……何とか、冷静でいられた」
「…………そうですか」
何か言いたげな表情で、彼はゼロの右手を見つめるが、先ほどまで傷ついていたはずの掌に傷一つないことを見てとると、首を縦に振るだけにとどめてくれた。
「今夜はこれまでです。他の件については、また明日、公式の場で構いません」
「分かりました。……――クィルイエス国王陛下、1つ、良いですか?」
「どうぞ」
首を縦に振ると、問いかけると言ったクールは口元に手を当てがい、慎重な様子で言葉を探しているようだった。やがて、赤い瞳が地面からゼロへと向き直り、
「貴方は、この地方を愛していますか」
その言葉に、ゼロは一瞬だけ虚を突かれたような表情をするも、軽く肩を震わせて微笑む。
「愛しています。私は、この地方の国王です。だから、この地方の人とポケモンの平穏を守るために、私は今後も役割を全うするつもりです」
「私も同じです。私も、モノクロ地方を、人やポケモンと愛している。彼らが平穏無事に共存できるようにするため、私は今、この立場にいます。だから」
すっと手をさしだしてきたクールの右手を、ゼロはためらいなく右手をさしだし、握りしめる。
「これからも宜しくお願い致します、クィルイエス様」
「ゼロで構いません、クール様。今後とも、宜しくお願い致します。互いに、良き地方を築いていくために」
それは月下の会談であり、公式の記録として残ることもない、口約束のような明確な物ではない。
それでも、互いに地方を思うその気持ちを認識し、二人は相手を見据え、頷き合った。
こうして、モノクロ地方とキングダム地方のトップは、改めて、互いの地方について"認識"するようになった。
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