「……で……――オーディン君が――……かい?」
「先生…………――――ですよ」
「いやぁ…………――君だし、……――……だろう?」
「……――怒っていいですか?」
人の声がとぎれとぎれに聞こえてきて、フレイヤはゆっくりと瞼を持ち上げた。
(……どこかしら、ここ)
最初に見えたのは、白い天井だった。続いて、視線は自分のいる周囲を覆う白いカーテンへ、そこから寝転がっている白いベッド、体の上にかけられた白い毛布を次々と見ていく。
確か、少し前まで、部屋の中で用事のあるという姉を待っていたはずである。それで廊下に腰掛けていたのだが、そこで曲がり角から出てきた人物と衝突。謝ってくる彼に何か言葉を返そうとして、しかし、ぶつかったことによって、忘れていた痛みがぶり返して――――。
「っっ――――!!!!」
思い出した瞬間、彼女は毛布をはねのけ、身にまとっていたドレスから足をのぞかせる。
足には白い包帯が何重も巻かれてあった。それは、見えていた傷を綺麗に覆い隠す形で。
「おや、起きたようだね」
カーテンを開ける音と共に、二人の人間がこちらを覗き込んでいた。
一人は、先ほどぶつかってきたらしい若い青年だ。金色の癖のある髪を困ったように掻きながら、鳶色の瞳を空中で泳がせている。
もう一人は、黒縁メガネの男性だ。こちらは、隣の青年よりも一回りほど年を取ったような人だが、老けすぎているようには見えない。白衣に身を包んだ彼は、柔和な笑みで首をかしげた。
「大丈夫かい? あ、もしかして足の方、まだ痛みがあったかな?」
恐らく医者であろう彼はそういうと、フレイヤのドレスの方に手を伸ばそうとして――――その前に、フレイヤは僅かに半身を引いて、伸ばしていた足を折り曲げると、座ったまま声を絞り出す。
「お、お願いします!! この足は、このことは、誰にも……誰にも、お伝えしないでください!! 姉さまにも、ジェライ様にも!!!」
「……ジェライ?」
金髪の青年が、主の名前に訝しそうな反応を見せる。それに気が付くこともなく、フレイヤはなるべく身を縮ませると、震える体を叱咤して深々とその場で頭を下げる。
「お願いします!! わた、私にできることなら……少しでも、できるなら、なんでも……なんでもします、だから!!!」
「お、落ち着いて、落ち着いて! よくは分からないけど、と、とりあえず、君の"足の傷"について知ってるのは、僕と、それから君を連れてきたこのオーディン君くらいだよ」
あわあわと慌てる男性の隣で、オーディンと紹介された青年が仏頂面を返す。ゆっくりと、フレイヤが顔を上げて、確かめるように首をかしげる。
「本当……ですか?」
「そ、そうそう本当ホント。だから、まずは落ち着いて。ね、ね? あ、もしかしてオーディン君の仏頂面が怖い? 大丈夫だよ。彼、単に自分の失態とヴィエルちゃんからのお説教で不機嫌なだけだから」
「ヴィエル……ヴィエルクレツィアお姉様が……お説教を?」
意味が分からない。
何故姉は、フレイヤ自身が悪いのに、目の前の青年に怒ったのだろうか。フレイヤは再び頭を下げた。
「あ、あの、申し訳ありません……きっと、お姉様は勘違いしてるので……! だから、お姉様のことは、どうか……っ!」
次の瞬間、さらさらと頭を撫でられる。ゆっくりと顔を上げれば、彼女の頭を撫でながら、小さなため息をついたオーディンがいた。鳶色の瞳を参ったように細めて、肩をすくめる。
「ヴィエルのほうは、俺がアイツの荷物をぶちまけたことで煩かっただけだ。そりゃ俺の失態だから気にするな」
「で、ですが……」
「何でも言うこと聞くって言ったよな、アンタ」
瞬間、びくりと体が震える。そうだ、自分は確かに先ほどそう言ったのだ。
だが姉のためなら、家族のためなら――――彼らに知られて大事になるより、自分の中で解決できるなら、それでいいのだ。
恐怖で体を硬直させたまま、頭の上に大きな手のひらを置く彼を直視できず、フレイヤはじっと視線を下に向けた。そして、
「じゃあ、謝るな。後、気にするな。これぐらいの命令、安いもんだろ」
「え…………」
顔を見ようと顔をあげたら、まるで誤魔化す様に頭を掻き撫でられてしまう。そして、そのまま背を向けてしまったオーディンとやらの背を、フレイヤは呆然と眺めた。と、一連の様子を眺めていたらしい黒縁メガネの男が吹き出す。
「ぶぶっ……あのガサツなオーディン君が、女の子を慰める日が来るなんて……ぷぷぷっ……」
「先生、いい加減にしてくれ」
ぐったりとした声のオーディンに、先生と呼ばれた男性が「ごめんごめん」と謝る。ただし口元は引きつっているうえに、若干笑っているようだが。
「あぁ、申し遅れたね。僕はこのフォンクラーシス城で常勤医師を勤めるケイジ。他の皆からは『先生』って呼ばれているんだ。よろしく、フレイヤちゃん。ヴィエルちゃんから、君のことは伺ったよ」
「お姉様はなんと……?」
「大人しくて可憐で気立ての良い子ー、って聞いてるよ。ヴィエルちゃんは君が大好きみたいだからね」
にこにことした笑顔の医者ケイジは、そう言って慣れた手つきで彼女のドレスを捲り、包帯を巻いた足を確認する。
「とりあえず手当はしておいたけど、折れちゃってる右足とか、傷跡の酷い物はちょっとね……んー、ハピナス君達も頑張ったんだけど、ポケモンの治癒技でも限界があるみたいでねぇ……治るには数日かかりそうなんだ」
そういって残念そうに頭を下げるケイジに、フレイヤは緩く首を振る。
「いいえ。こちらこそ、お手数をおかけして申し訳ありません」
「いやいや、気にしないでくれよ。というより、お礼はそこのオーディン君に言ってくれよ。君の状態を見るなり、真っ先にこの部屋にすっ飛んできたんだからね」
指を差されたオーディンは、両腕を組みつつ、視線を向けてくるフレイヤに背を向ける。少しだけ困った顔をするフレイヤを見て、ケイジはのんびりと笑う。
「ハハハッ、オーディン君は照れ屋だから気にしなくていいよ。元々、ゼロ君みたいに女性の扱いに長けていないんだ、ぷぷぷっ……! そ、それで、ね……ぷっ……う、やっぱりダメか……!!」
「先生、笑うなら俺が説明しますよ」
オーディンが半眼でケイジを睨みつけると、彼は口元を抑えてこくこくと頷き、その場から一度離れる。そして、彼の姿がカーテンの向こうに消えた瞬間、
「ぶっ……オーディン君が、女の子を抱きかかえてくるとか、ぶっ……ブハハハハハッ!!!」
げらげらとカーテンの向こうで腹を抱えて大笑いしているらしいケイジを横目ににらみつつ、オーディンはため息をついた。
「あの人は変なところで一度ツボに入ると、しばらく大笑いする人なんだ。気にするな」
「は、はぁ……」
曖昧に頷いてから、フレイヤは改めて、傍の椅子に腰かけたオーディンを見る。癖のある金色の髪の彼は、やはりどこか不機嫌そうな表情をしているように見える、貴族男性の様に着飾った服ではないが、印象的な騎士団員の服を、着やすくするために着崩しているのは、彼に妙に似合っていた。
と、彼が鳶色の瞳を少しばかり真剣そうに細めたので、それに合わせて、フレイヤもまた、姿勢を直して向き直る。
「それで、今回のことなんだが」
「今回、というのは……?」
フレイヤが尋ねると、彼の鳶色の瞳が、自身の包帯が巻かれた足に向けられることに気づき、彼女は苦笑した。
「あ、あの傷は、オーディン様の責任ではございません。元々あったものです」
「じゃあ、その傷は何である?」
「それ、は…………私が、自分でつけているのです」
鳶色の瞳が強く引き締められる。責められているような視線はもう慣れているはずだ。
自分の心を叱咤しながら、フレイヤは慎重に言葉を選ぶ。
「何でだ?」
「私は、ジェライ様の妻であるために、自分を磨かなくてはなりません。貴族の良き妻としてあるために、出来ないことに対しては、罰が必要なのです」
「膝に無数の傷跡をつけることも、足首を折ることも、か? それは――――本当に、お前の意志か?」
オーディンの声が低くなり、鳶色の瞳が険しさを増す。
まるで何か"怒っている"ような雰囲気に、フレイヤはふと、困惑を覚えた。
――――彼は一体、何を怒っているのだろうか? 自分の身を大切にしろと、そう言いたいのだろうか。
そうだとすれば、彼は――――なんと、優しいことなのだろう。自分ではなく他人を心配できる。
それは、素晴らしいことだ。
フレイヤは、嗤った。
「はい」
「…………あくまでも、シラを切るのか、お前は」
怒気を孕んだぼそっとした呟きに、フレイヤは一瞬びくっと体を震わせる。しかし相手は気づかなかったようだ。がしがしと手入れのあまり行き届いていない金髪を掻いた後、彼はフレイヤに改めて向き直る。
その姿が、何を言おうとしているのか分からないが――――フレイヤは嫌な予感がした。そして、それはすぐに的中した。
「先に言う。アンタには数日、この城で生活してもらう」
* * *
その言葉を言った瞬間、彼女は予想通りうろたえた。少し前のやり取りから、それは予想できることだった。彼女は空色の虚ろな瞳を見開くと、オーディンに詰め寄るように体を起こす。
「ど、どうして……!?」
「その傷と骨折」
「だ、だから、それは私が――――」
見るからにおびえた様子で必死に弁解をする彼女の姿は、オーディンの苛立ちを増させる。――何故彼女は、傷を負わせたと思しき人物を庇うような言動を取るのか、理解できない。
苛立ちをなるべく押し隠すようにして、彼は声を上げた。
「それは『俺がアンタとぶつかって出来てしまった傷』だ」
力強い言葉に、フレイヤは一瞬息を飲む。しかし、両手を強く握りしめると、空色の瞳を曇らせて首を振る。
「ち……違います。これは、私が――――」
「そんなの、あのぶつかった時に分かるわけないだろう。俺とぶつかって、アンタが"気絶しているとき"に見たらそうなっていたんだ。とすれば、ぶつかった時にやってしまった、って思うのが、普通の判断だろう」
「そ……そうだとしても、とにかく、貴方の責任ではありません! わ、私は大丈夫です! 大丈夫、だから――……!!!」
「もう既に、アンタの男とは話をつけた」
「――――っ!!!!」
今度こそ本当に、フレイヤは目を見開いた。泣くことはしないが、足にかけられた毛布を強く握りしめて、オーディンを睨みつける。唇を強くかみしめる目の前の女性から少しだけ視線をずらし、オーディンはため息をついた。
「――俺は、騎士団長の息子だ」
「……え?」
「アンタも分かるとは思うが、基本、騎士団と貴族っていうのは仲が悪い。騎士団の息子が、貴族の妻の足を折って、しかもそのまま放置ではいさようなら、とか、お世辞にも出来るわけないだろう。貴族どもからどんな後ろ指さされるか、分かったもんじゃない」
「で、ですが……」
「じゃあアンタ、公に『私の膝には最初からたくさんの傷跡があって、足も折れていました』って言えるか? 言っとくが、アンタの足の事実は残る。この医務室では、患者の記録は外の人間だろうがなんだろうが、全て残るんだからな」
「!」
叩き付けるように言い放った問いに、フレイヤは答えることが出来なかった。両手が毛布に組み込むほどに爪を立てる。そして、ぽつりとつぶやいた。
「それを見越して……貴方は、ここに連れてきたのですか?」
「――さてな」
肩をすくめてフレイヤを見やれば、彼女の表情は、酷く乾いていた。空色の瞳は濁りきり、オーディンすらも映す様子はなかった。と、カーテンから先ほどまで大笑いしていたはずのケイジがお盆を持ってひょっこりと顔を出す。お盆の上には、いつの間にか入れたらしい紅茶入りのティーカップを乗せている。
「まぁまぁ、フレイヤちゃんもそんな顔しなくても大丈夫だよ。はい、とりあえず落ち着くためにも紅茶でもどうぞ。あ、砂糖とかミルクいるー?」
「いいえ……今は、何も飲みたく――――」
「う、ううう、ぼ、僕が入れた紅茶ってやっぱり飲んでもらえないの!? 言っとくけど、お医者さんの全員が全員、飲み物を用意するたびに何か不思議な薬を入れたりすることはないんだからね!?」
ハンカチでもあればぎりぎりと噛んでいるのではないかというほどのオーバーリアクションで残念がるケイジに、フレイヤは少し戸惑った表情をする。やがて、諦めたように肩をすくめると、そっと受け取るような姿勢で両手を伸ばす。
即座に機嫌を直したケイジが、フレイヤの両手にソーサー付きのカップを乗せる。それを横目に眺めつつ、オーディンは軽く背筋を伸ばすと、胸の位置までソーサーを持ってきて、右手でカップを持ち上げる。それから香りを確かめ――ダージリンのほろ苦い感覚を思い出す――そっと口をつけた。
「どうかな、オーディン君?」
「……先生、今回はどのくらいレモンをいれたんですか……?」
「何を言っているんだい、オーディン君。レモンは体にいいんだよ。君みたいなガサツな子には、レモンが効果的なのさ。――ちなみに今回は丸ごと入れたやつだよ。前回の半分だけだと意味がないってわかったからねー。あっ、フレイヤちゃんのは普通のだから安心していいよ」
自信満々にえばる医者に半眼を向けるが、フレイヤのほうに向きなおられて逃げられる。
と、そのフレイヤは、口を付けた後に、ちょっと意外そうにこちらを見つめていた。
「? なんだよ」
「オーディン君、女の子にぶっしつけな物言いは感心しないぞー」
外野の指摘を聞き流しながら向き直ると、彼女はもう一口紅茶に口をつけてから、おずおずと呟く。
「あ、その……とても、上品な飲み方をするのですね……」
「背筋伸ばして香りを確認して、最初は必ず一口だけっていうのが、か? ――まぁ、紅茶は好きだから、そういったちょっとしたマナーは守りたいだけだ」
「マナーっていうか、ほぼオーディン君だけのルールだけどね。飲み物っていうのは、水分が取れればそれが一番いいんだよ」
「まぁ、俺も紅茶以外は水分取れればそれでいいとは思いますけど。後、飲むならうまいのだな、やっぱり」
ケイジの言葉にそれなりに同意を見せるオーディンは、そう言って、何度か口をつけているフレイヤを見つめ、
「うまいか、それ」
「……は、はい。――ケイジ先生、ごちそう様です」
気付けば空になった紅茶のティーカップを返して、フレイヤは頭を下げた。
「いやいや、お安い御用だよ。――ところでフレイヤちゃん、そろそろ眠いんじゃないかな?」
「あ……そう、かも………………で……」
それが限界だったか。瞬間、彼女の体がその場で傾く。オーディンが咄嗟に伸ばした片手が、横に傾いた彼女の体をその場に支え直す。紅茶のソーサーを空いた片手で持ちながら、オーディンは肩をすくめた。
「先生の紅茶が飲まれないのは、こうやって薬を仕掛ける前科があるからに決まってるからじゃないですか」
「でも僕、"不思議な薬"は入れてないよ? 基本、どんな用法があるか分かっている薬だけさ。――今回だと、精神を安定させて眠りを誘う薬、とかね」
「はぁ…………俺のには入ってないですよね?」
「レモン丸ごと二個入れた以外には特にないかなー」
「一個じゃないんですか……」
片手で受け止めた彼女の体を横たわらせてから、オーディンとケイジはカーテンの外に出ると、傍の椅子にそれぞれ腰を下ろした。
酷く不機嫌そうに紅茶を口にしつつ、オーディンはぼやいた。
「アイツ、なんであの男をああまで庇うんだ?」
「本当に惚れてる、実は弱みを握られている。まぁどっちかではあるんじゃないかな? オーディン君はどう思う」
自分用に用意していたらしい紅茶を飲みながら尋ねてくるケイジに、オーディンは鳶色の瞳を細めて、忌々しそうな表情をした。
「どっちであろうと、あの男がくそったれな存在であることは確かですよ」
彼女がドレスの裾を抑えていたとき、最初は、こちらの過失を誤魔化すためのだと思った。
だが、違和感と共に捲った白いレースの下にあったのは、ありえない方向に曲がりつつあった右足に、その両膝には痛々しい傷がいくつもあった。
その時、オーディンはほとんどとっさに医務室に行くことを選んだ。
彼女がヴィエルの妹であることは後程分かったことだが、それでも、彼女の傷を見た瞬間、これは、ヴィエルに見せてはいけない。ほとんど直観的にそう思ったのだ。実際にその行動は正しく、カマをかけてきいたヴィエルは、フレイヤの足の傷を知っている様子はなかった。
「ヴィエルちゃんにフレイヤちゃんが怪我してて足折れてる、って言った瞬間、オーディン君、絞め殺されそうだったもんねー。ヴィエルちゃんのカイリューなんて、オーディン君に破壊光線をバシバシ放ったし」
のんびりそうに言うケイジだが、実際の状況は洒落にならなかった。手持ちポケモン全てを総戦力としてオーディンにけしかけたヴィエルは、フレイヤの状況を見たいから会わせるように詰め寄ってきたのだ。しかし直観的に会わせるわけにはいかなと感じたオーディンは、手持ちポケモンがいないながらも、何故か医務室の前でヴィエルの(能力値だけやたらと高い)ポケモン達を相手に、自身の体一つでバトルをしていたのだ。
結局、騒ぎを聞きつけてやってきたゼロが彼女をなだめるまで、オーディンはヴィエルのポケモン達の攻撃からひたすら逃げ回っていた。
ゼロと共に現れたフレイヤの婚約者であるジェライもまた、ヴィエルほどの取り乱しはしないながらも、オーディンにせっぱつまった表情で、フレイヤの容体を尋ねてきた。
「それにしてもあのジェライっていう彼、一見すると、フレイヤちゃんをとても愛してるようではあったけどねぇ」
「でもあの傷跡、自身が罰でやっていたとか言うには、無理があると思うんです」
証拠はないが、オーディンは、フレイヤに傷をつけているのは、婚約者である男だと思った。それは、彼が長年共にしてきた直観的な判断だ。
「それに」
「それに?」
「――――アイツの、フレイヤを一時的に預かるって言ったときの、あの目が気になる」
騎士団長の息子が不祥事を起こしたとあっては、騎士団側としても貴族側との取引で不利になる。だから、今回の件を内密にするために、こちらで彼女の面倒を見させていただく。
オーディンがそう提案した瞬間、ジェライの紫色の瞳は、ほんの一瞬――――酷く相手をさげすむような色を見せた。それは本当に僅かなタイミングだったが、オーディンは、彼の「憎しみを込めた冷めた瞳」を見た瞬間、悪寒の様なものを感じた。背筋をぞくぞくと這い上がってくる寒気は、ジェライがすぐさま困ったように笑ったことで霧散したが、それでも、一度感じた感覚を忘れるほど、オーディンの騎士団員としての勘は鈍ってはいない。
「目?」
「なんていうか……言い表しにくい悪寒みたいのを感じたんです」
「ふぅん?」
理解してるのかしてないのか、そんな曖昧な様子で首をかしげるケイジ。思い出して軽く身震いしてから、オーディンはもう一度、レモンをたっぷりつけすぎた紅茶を飲みながら、苦々しい表情をした。
「まずは、ヴィエルになんて説明するか考えないとな……」
* * *
夢の中で、久々に姉と戯れた。
それはもう随分と昔の話ですっかり忘れていたと思ったのに、脳は意外と覚えていたらしい。
ただし、楽しそうにはしゃぐ姉は、今の姉だった。
私は……昔の私だった。
前に進む姉とは対照的に、私は全く動くことが出来ない。
そうしている間に、世界は灰色になっていく。
色のない世界が広がり、後ろから伸びてきた手が、私の両目を隠す。
『逃げることはできない。そのためにも、君の足は私が奪ってあげよう』
恐怖を感じられるうちはマシなのかもしれない。
きっと私はもう数日もすれば、何も感じられなくなるのだから。
――――本当に人間は傲慢だねぇ、ヴィエル。
そんな声が、どこかから聞こえた気がした。
* * *
それは、日もとっぷりくれて、藍色の空に白く丸い光が煌々と浮かんでいる頃。騎士団員達が馬鹿騒ぎをしている食堂の隅で、二人の青年が向かいあっていた。
「それで、そっちの方はどうだったんだ?」
「ヴィエルは私の部屋で寝ているよ。心配すぎて、一人だと駄目なんだそうだ」
「へーへー。……とりあえず、医務室にだけは近づけるなよ。あの足を見たら、絶対に厄介なことにしかならない」
「婚約者へ殴りかかりに行ったとしても、証拠がないからな。むしろ、ルアーブル家側の問題になって困るだろう」
「アイツも、その心配をしてたみたいだな。まぁ分かってはいたが……ヴィエルって意外とシスコンなのか」
「これは奪うのが大変になりそうだな、ディン」
「あぁ、全くだ。明日、ヴィエルからフレイヤと同伴する許可を取る前に殺されそうだぜ……」
「ふふふっ、いや、私が心配してるのはそこでなくて――――いや、なんでもない、ふふふっ」
「何だよ、不気味な笑い方しやがって……。ところで、そっちはどうだった?」
「特に当たり障りのない内容だけだ。対談についても、そっちの騒ぎがすぐに起こってしまって、中断のままお開きだったからな」
「そりゃ悪かった」
「でもまぁ、少しだけ収穫はあった」
「何だよ?」
「彼は多分、"王様"になりたいのだろう。全てを自分のものにしないと気が済まない、全てを自分の思い通りにしたい。目が、そう訴えていたように見えてね」
「やっぱ、目、かぁ」
「なんだ。思い当たる節でもあったのか?」
「……まぁちょっと、な。とりあえず、後で親父からウィル借りるか」
「?」
「俺が運ぶより、運び慣れてる奴のほうがいいだろ?」
騎士団長の息子の言葉に、次期国王は静かにため息をついた。
「……いくじなしだな、ディン」
「何でそうなる!?」
「男が女性を抱えられないのは問題だろう。それとも、女性を抱きかかえてのエスコートは恥ずかしいとか、そういうわけじゃないだろうな?」
「単に両手塞がってるのが嫌なだけだ! ってかお前、思考回路がヴィエルに似てきてるだろ!?」
「それは光栄だ」
軽くお辞儀して見せる親友を、彼は苦々しい表情で見つめた。
* * *
その男は屋敷に帰った瞬間、彼女を"保護していた"部屋へと足を進める。
そしてたどり着いた部屋の中には、彼女が幾つか持ってきた私物や、他にこの屋敷で生きていくのに必要なものなどがいくつかある。その中の、すぐそばにあったポケモンのぬいぐるみを、男は爪を立てるほど握りしめると――――勢いよく、それを地面に叩き付け、それを足蹴にする。
憎むほどにふみつけたぬいぐるみの綿が出てきても、それすらすり潰すかのように、その男はぬいぐるみを踏み続ける。
「あの男め……!! 私の物を私の物を私の物を私の物を――――……!!」
ぶつぶつと罵倒を呟きながら、男はひたすらぬいぐるみを足で踏みにじる。
やがて、男は踏みつけるのを止めると、懐からポケギアを取り出す。先ほどまでの激情など全く見えない表情で、彼は手慣れた様子でボタンを押し、連絡を入れる。
「あぁ、私だ。少しばかり、予定を変更する――……あの騎士団長の息子を排除して、その血で、儀式を行う」
* * *
次の日の朝。
フレイヤが目を覚ましたのは、昨日と同じ場所、つまりは医務室の中だった。昨日の出来事が何か都合のいい夢であったわけでないといわんばかりに、医務室特有の香りが脳を刺激する。とはいえ、体がまだ気だるいので、彼女は寝返りを打って頭の中を整理しようと試みた。
とりあえず、彼女は昨日のことを思い出そうとして――――ふと、姉の手紙のことが脳裏をよぎる。
ただの当たり障りのない近況ばかりしか返さなかった自分とは違い、姉の手紙は、色々なことが書かれてあった。近況であるのは間違いないのだが、彼女が城で過ごした時に会った出来事を様々と書いてよこした。
自分が愛した"王子"のお話や、自分のわがままに付きあわせている"青年"のお話、この城に住まう変わった性格の"王妃"や、時折青年をからかう"参謀長官"のお話などなど。それは、何かの物語にあるようなお話ばかりで、フレイヤはいつも、どこかの冒険譚を読んでいるような気分になった。
特に、フレイヤが話を読んでいて心惹かれたのは"青年"のお話だ。文句を言いながらも人の為に動く彼は、まるで物語の"騎士"のように、危機にさらされた人々を守り、そして悪いことをする人に立ち向かっていく。人間らしい性格で、とても優しい彼のお話は、屋敷から出ることの叶わなかったフレイヤによって、数少ない楽しみの一つだった。
(姫と騎士みたい、って、そういえば思ったのよね)
物語によくある姫と騎士。お転婆なお姫様に振り回される騎士様はとても心優しく、自分やお姫様以外の人間も守ろうとする高貴な心を持っている。それは、フレイヤにとって憧れであり――――決して届くことはない思いだ。
そんなことを考えているうちに、体のほうも随分と目が覚めてきた。瞼をこすって体を起き上がらせたフレイヤは、固定された右足を地面に打ち付けないように気を付けながら、無事な左足を地面に付き、カーテンを開けてみた。
カーテンの向こうには、様々な紙が貼ってあるデスクの上に頭を横たわらせているケイジの姿がある。ぐーすかといびきをかくかれの上には、毛布がかかっていた。と、
「ハッピ〜」
ぴょこぴょこと、カーテンの視覚になる位置から、一匹のポケモンが姿を現した。上半分ほどがピンク、下半分が白いそのポケモン――ハピナスは、大きくまるまるとした体で、とたとたとフレイヤに近づく。そして、どこからともなく取り出した体温計を、彼女に手渡す。
「体温を測れ、ってことかしら?」
「ハッピ!」
丸まっている大きな耳をパタパタ動かしつつ、大仰に頷くハピナス。
そしていきなり、その場に片足で立っていたフレイヤを両手で持ち上げる。驚きの声を上げる前に、彼女は荷物の様にそそくさと担がれると、最初に眠っていたベッドに戻される。
突然の事態に目をしばたくと、ハピナスはフレイヤに手渡した温度計を指さす。慌てて体温を測り始めると、その様子にハピナスが嬉しそうに耳をぱたぱたさせる。
「あなたは……ケイジ先生のポケモン?」
「ハッピィ〜♪」
こくん、と頷いたハピナスは、フレイヤが体温を測っている間も、彼女の足の状態を確認しつつ、やはりどこからともなく新品の包帯を取り出し、手慣れた様子で包帯を巻きなおし始める。古い包帯をほどいていくと、その隙間から痛々しい裂傷が伺える。
しかしそれは、昨日、フレイヤが自分で確認したよりもかなり良くなっている。その状態にフレイヤが少しだけ意外そうに目を丸くし――――と、扉を叩く音が医務室内に響き渡る。
「おーい、先生、いるかー?」
「ハピッ!」
素早く傍にある毛布をフレイヤの両膝にかけてから、ハピナスは慌てて扉に近づき、カギをあける。
と、顔をのぞかせたのは、昨日、フレイヤを医務室に運んだオーディンという青年だった。その手には、三人分の食事が乗ったお盆を持っている。フレイヤを見つけると、彼は首をひねった。
「どうだ。ちゃんと寝れたか?」
「は、はい…………あの、それ」
「あぁ、アンタと先生と、それから、このハッピーの朝食だ」
「ハッピィ〜!」
朝食を持ってきてくれた喜びを表す様に、すりすりと彼の体に抱き着いて顔を摺り寄せるハピナス――ハッピーに、オーディンが苦笑する。そして、彼がフレイヤのほうまで近づこうとすると――――突然、その行く手を遮るように、ハッピーが回り込んでくる。訝しげに見下ろす彼に、真ん丸いポケモンは体を左右に振る。
「ハ、ハッピ、ハッピ!」
「近づくな、ってことか? つっても、近づかないと朝食を彼女に渡せないだろ」
「ハッピィ〜……ハ、ハッピハッピ!」
何か伝わる言葉はないだろうか、と一瞬しょげた様子を見せるハピナスだが、ふと、フレイヤの上に放り投げている新しい包帯を指さし、続いて、自分の足を指す。
どうやら、そのジェスチャーでハピナスが訴えていることが分かったらしい。
あ、と、一瞬だけ苦い表情を見せたかと思うと、彼はハピナスの言うとおりフレイヤへ近づくのをやめて、彼女の姿が見えないカーテンの向こうへと移動する。何故、ハピナスがそんなことをしたのか分からず――そして訴えた内容にオーディンが苦い表情を浮かべたのか分からず、首をかしげた。
「あ、あの……?」
「包帯を取り替えていたんだな。……悪い。自分の傷を他人に見られる、っていうのは、まぁ、嫌なことだもんな」
言われて、フレイヤは目をしばたかせた。それから、前日、自分が傷のことで取り乱したことを思い出し、困ったように笑う。
「別に、見たくて見るものでもないですから、謝らなくても……。むしろ私のほうが、朝から、そこのハッピーちゃんや貴方に、こんな傷を見せてしまうような状態で本当に……」
「いい、謝るな。アンタに謝られると……――困る」
どこか不機嫌じみた声に、フレイヤは表情を曇らせる。怒らせてしまったのだろうか、と思った瞬間、バチーン!と何かをはたく音が響く。
次いで、カーテンの向こう側から、片腕を上げて誇らしげにあげてハピナスが入ってくる。
「……はたくことないだろ、ハッピー」
「ハピッ!」
オーディンのぼやきにぷりぷりと怒るハピナスは、フレイヤの傍まで来ると、毛布をめくり、彼女の足を愛おしそうに撫でる。それから、労わる様に古い包帯をすべて外した。
すると、ハピナスは新しい包帯を巻かずに、そっと彼女の両足から手を放す。何を始めるのだろうか、と思うフレイヤの目の前で、ハピナスの体が光りだす。同時に、頭上に無数の鈴が出現。輪唱した鈴の音が音楽の様に部屋の中に響き渡る。
「これは……」
「"癒しの鈴"っていう技だ。本来はポケモンの状態異常を回復する技だが、応用で、人間の細胞を活性化させたりとか、要するに治癒力を高めることができるそうだ」
声がしたのは、カーテンの向こう側だ。彼の背中が影となってカーテンに映っている。
「アンタの傷や骨折が昨日より良くなってるとしたら、そこのハッピーが懸命に技を使ってるからだ。――――ちゃんと、感謝しとけよ」
そう言っている間にも、酷い傷跡がかさぶたになっていき、一部はすっかり通常の肌と同化していく。やがて、鈴の音が鳴り響き終えると同時に、ハピナスが大きく息を吐き出す。そして、顔を上げてにこっと笑ったハッピーに、フレイヤは深々と頭を下げる。
「有難う、ハッピーちゃん」
「ハッピィー!」
嬉しそうな声を上げて新しい包帯を足に巻き始めるハピナスにお礼を言うと、フレイヤは僅かに体の向きを変え、
「オーディン様も、教えてくださって有難う御座います。朝ごはんのほうも、わざわざ持ってきて頂いて」
「…………」
その言葉に、オーディンはカーテンの向こうで黙り込んでしまう。
何か気に障る事でも言ってしまったのだろうか、と心配になったところで、丁度、包帯を巻き終えたハピナスが、カーテンの向こう側へ出ていく。そして、バチンバチンバチンバチンバチーン!という痛々しい往復ビンタの音が部屋の中に響き渡る。
やがて、胸を張って憤まん露わたる様子のハピナスが、頬がやや腫れ上がって顔の赤いオーディンを連れてくる。彼は納得のいかない表情をしていたが、ハピナスが不機嫌な声を上げると、ため息をついた。
「別に黙ったのは……アンタは謝るより、そうやって感謝してるほうが、よっぽど良いって……その…………思ったのはいいが、なんて言えばいいか分からなくて……考えるのに、黙り込んだだけだ。気にするな」
耐え切れないといわんばかりに視線を外すオーディンに、ハピナスは彼の両手をそれぞれバチンバチンと強くはたく。痛みにうめくオーディンからぷいっと目を離して、ハピナスはそそくさとカーテンの向こう側へ消えていく。
暫くして、カーテンの向こう側から激しい往復ビンタの音に合わせて、ケイジの悲鳴じみた声が響くのを、フレイヤはぼんやりと眺める。
「楽しいか」
「え?」
「口元。昨日と違って、ちゃんと笑ってると思ってな」
言われて、フレイヤは自分の口元をなぞる。唇は確かに小さな弧をえがいていた。自分でも気づかなかった表情の変化に、フレイヤは、本当に久々に心地よい気持ちで、くすりと笑った。
「教えてくださって有難う御座います、オーディン様」
「…………おう」
頭を深々と下げるフレイヤに背を向ける形でぼそっと返事をして、オーディンは痛みの響く手をさする。
その姿を見つめて――――あぁ、とフレイヤは頭の中で納得した。
目の前の彼こそが、姉の物語に出てくる"青年"なのだと。心優しい"騎士様"というのは、彼のことだ。
自分には決して手の届かない人物が、そこにいる。彼は"誰に対しても心優しい人"なのだ、と。
頭の中で事実と符合していくのをぼんやりと見つめつつ、彼女はうすらぼんやりと涙を流した。
突然、声もなく泣き出した女性に、オーディンが目に見えて狼狽える。直後、カーテンを開けたらしいハピナスのハッピーが、オーディンに向かって激しいはたくの一撃を、腹に決めたのだった。
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