その頃の彼女にとって、灰色と化した箱庭の世界が全てだった。


* * *


「妹だぁ?」
「そうよ」

 当然のように頷く妃候補――といっても、ほぼ決まったも同然ではあるが、一応名称的なものだ――ヴィエルクレツィアの言葉に、騎士団長候補――こちらは本当に候補だ。騎士団長は世襲制ではない――オーディンは胡乱な目を向けた。

「お前の妹、っていうと、お前に更に輪をかけた性格でもしてるのか」
「失礼ね。フレイヤは私と違ってぶっとんだ性格をしてない、大人しくて可憐で気立ての良い子よ!」
「自分の性格に自覚はあるのか……」

 ずずーっとココアを飲みつつ、目の前で頬を膨らせる女性を見つめる。彼女がこの城の主の息子と出会ってから、そろそろ一年が経とうとしていた。
 金色の髪は出会ったときよりも少し長くなり、先をくるくると丸めてある。容姿は、元々年頃の女性よりも"美人"の分類であったが、一年たった現在、彼女の美貌は衰えずに保ち続けられている。つまり、髪以外で彼女の容姿は特に変化していない。――もちろん、中身も含めて。

「出会った当時は、それなりに大人しい女性だなーとか思ったんだけどな」
「女性がパーティ会場で猫を被るのは当たり前でしょ。基本中の基本よ」
「お前の妹も、実は猫被ってる、ってオチはないのか?」

 言われて、ヴィエルクレツィアは即座に首を左右に振った。空色の瞳が非難するように細められる。

「ディン、私のこともダメだけど、フレイヤのことをこれ以上酷く言うなら怒るわよ」
「つってもなぁ……俺も、見たことない奴を非難するのはあまり良いことじゃないって分かってるぜ。ただ、貴族で、しかもお前の妹って要素の時点で、心配する要素が十分すぎるだろ」

 この一年、目の前の女性にとにかく振り回されたことを思いだし、オーディンは酷く苦い表情になる。彼女は何故か、自分の夫になるであろう次期国王のゼロ――彼の場合もほぼ決定済みだ。国王は世襲制となっている――ではなく、ことあるごとにその夫の親友である彼を連れまわしたり振り回したりすることが多いのだ。曰く「ゼロに迷惑かけるようなこと、私がするわけないじゃない。でも何となく暇だから、ディンで我慢してあげているのよ」ということだった。
 オーディンにとって、彼女はもはや天災の一種だ。しかも、逃げようとすれば無駄に追ってくる性質の悪い天災だ。ついでに、放っておけば誰かに被害が及ぶのではないか、と思ってしまうオーディン自身のの性格も災いして、彼は結局、ヴィエルクレツィアのわがままに振り回されていた。
 今も、明日に城を訪れる予定の妹にサプライズプレゼントをしたいから何をプレゼントすればいいか、ということの相談に付き合わされているのだ。

「とりあえず、プレゼント決めるんだったか。……っていうか、俺より、女物に詳しそうなメイド達に聞けばいいだろ。後、ゼロとか」
「だって、メイドの人達って忙しそうなんだもの。ゼロも今日は勉強のほうが忙しいみたいだし。その点、ディンは大体暇でしょ?」
「大体、とか言うな」

 暇であることは確かなのだが、何となく頷きたくないので、オーディンはぼやいた。そんな彼の不満など聞かなかったことにして、彼女は持ってきた雑誌を広げて唸り始める。

「うーん、やっぱり洋服かしら? それともアクセサリー? 靴もよさそうよね。あぁ、でも今のサイズが分からないわぁ〜!」
「つーか、妹だったら、家で顔を合わせてるだろ。その時にさりげなく聞けば――」
「――――この数か月、あの子に会ってないのよ」
「は?」

 意味が分からずに目を点にすると、彼女は呆れたようにため息をつく。

「さっきも言ったでしょ。あの子、結婚するって」
「お前がゼロと出会ってから数か月後に、他の有力貴族との婚約が決まって、そいつとの結婚式が一週間後、とかだろ? それとお前が会ってない理由、どう関係するんだよ」
「鈍いわね、ディン」
「何でそうなる!?」

 突っ込んでみるが、ヴィエルクレツィアは複雑な表情だ。
 彼女が何を言いたいのかわからず、オーディンはもう一度ココアを飲み干しつつ、彼女の言葉を待った。やがて小さく息をつくと、ヴィエルクレツィアは肩をすくめる。

「あの子、この数か月は家に帰ってきてないのよ」

 その声は、どこか不機嫌さと心配をはらんだものだ。オーディンは目をしばたく。

「婚約者と一緒のほうが、居心地良くて帰ってこないだけじゃないのか? お前みたいな感じで」

 実際、ヴィエルクレツィアはこの数か月、実家のルアーブル家に帰らず、彼氏が住まうこの王城フォンクラーシス城の客間に泊まっている。その客間はもはや彼女の専用私室と化しており、買った私物が山ほどおいてある。

「それなら、いいのだけれど……。最初の時は、あの子自身から『ちょっと泊まってくる』っていう連絡があったの。でも段々、連絡もなしに泊まることが増えて……向こうに電話したら、出るのは使用人、頑張って結婚相手の当主よ。で、『こちらで大切に保護してますから』って返答のみ。後は当たり障りのない会話で切られちゃうの」
「それもお前とほとんど同じじゃねぇか、特に連絡しないところが。それのどこが心配要素なんだ?」
「ねぇ、ディン。婚約者相手に『保護しています』って、可笑しいと思わない?」

 言われて。
 オーディンは鳶色の瞳を少し見開いて、寄り掛かっていた椅子から体を持ち上げる。少しだけ真剣そうに見つめる中、ヴィエルクレツィアはため息をついた。

「私の気の迷いなら別にいいのよ。ただ、もしもあの子に何かあって、それを、向こうの婚約者側が誤魔化しているのだとしたら、って思うと……ね」
「それで今回、確認の為に城へ招くわけか」

 話に少しばかり納得のいった彼に頷き返し、彼女はぺらぺらと雑誌をめくる。ただし、それは内容を見るというよりは、不安を誤魔化すための様な作業であるようだった。実際、視線は雑誌ではない遠くに向いている。

「実は手紙とかも何度か送ったのだけれど、どれも、そんなに大したことのない近況内容の返信で……屋敷がこのロンドシティにあるから、直接会おうと思って行っても、必ず『屋敷にはおりません』って言われるし……」
「そりゃ不自然すぎるな」
「でしょ? それでゼロに頼んで『妻の妹の結婚を祝うためにも、一度、夫ともども、二人にお会いしたい』っていう文面を送ってもらったの」
「……妻って、まだ決まってないだろ、お前」
「ゼロが浮気するわけないから、ほぼ決まったも同然に決まってるじゃない。馬鹿よねぇ、ディンは」

 けろっと言ってのける彼女に少しばかり頭痛を覚えつつ、オーディンは眉間を押さえる。と、ヴィエルクレツィアは雑誌をめくるのをやめて閉じると、間に挟まれたテーブルに身を乗り出して、オーディンに指を突き付ける

「そういうわけだから、ディンもちゃんと協力するのよ」
「……プレゼント選び以外に、何をやれっていうんだ」
「決まってるでしょ。フレイヤが本当に無事であるかどうか、よ」
「まぁ、そういう事情なら、その件には協力していいけどな」

 金色の髪をがしがしと掻きながら渋々頷く。ヴィエルクレツィアの話は、流石に聞かなかったことにするには、後味の悪い話だ。もしもその妹とやらが特に問題ない杞憂であればそれにこしたことはないのだが、万が一があった時――――それは、地方の治安をつかさどる騎士団所属の人間として、見過ごせない問題だ。

(何より、貴族連中が企んでいるとすれば、碌でもないことは確かだろうしな)

 騎士団員として、貴族達のくだらない企みを見ているオーディンにとって、貴族とは(ヴィエルクレツィアやジムリーダーのような例外がいるとしても)碌でもないことを企んでいる連中だ。自分たちの欲望の為に、人やポケモンを道具の様に使う彼らを止めることは、騎士団の重要な役割の一つだ。
 だからこそ、騎士団と貴族は常に対立関係にある。

「が、その妹のプレゼント選びっていうのは自分でやれ」
「えー」
「……明日までに買いに行ってやるから、いまここでお前が選べ、って言ってるんだ」

 瞬間、目の前の女性の顔がぱぁっと明るさを取り戻す。そして、閉じた雑誌を再び開くと、機嫌よさそうに彼女はプレゼント選びを始めた。そんな彼女を視界に入れないようにと、彼は再び、ココアを音を立ててすすった。


* * *


 その男は、妻と自分宛てにやってきたその手紙を片手でつまみ、非常につまらなさそうな目を向けた。

「ふぅん。儀式の数日前ではあるが、まぁ、流石に王子様の機嫌を損ねるわけにはいかないからねぇ」

 女性はその言葉に、白いベッドの上でびくりと体を震わせた。生まれたままの姿の彼女は、自分の転がっていたシーツの上に爪を立てるように起き上がると、おびえた瞳で男を見つめる。
 口元に小さな笑みを浮かべ、彼は手紙を置いて、気楽そうに両腕を広げた。

「なに、君は心配いらない。私の"言う通りにしていれば"、私は別に何もしないよ」
「本当、です、か……?」
「あぁ、本当だとも。今まで私は、そうしてきたであろう? ――まぁもっとも、君が嫌なのであれば、私は別に構わないが」
「そんなことありません!! 私は、貴方様の言うとおりに……仰せのままに、貴方様を愛して、貴方様にすべてを捧げます」

 それはまるで魔法を唱える呪文ような言葉で、つまりは、言葉そのものに感情を感じさせないもので。
 頭を深々と下げる女性の傍まで、男は近寄った。一糸まとわぬ女性の金髪が、白い波の上に散らばっている。それを冷えた目で見つめてから、彼は細い指で彼女の顎を掴む。無理やりあげさせた顔はどこか虚ろで、空色の瞳は濁りきり、焦点が合っていないようだった。
 僅かに開いた唇に自身の唇を重ねると、生々しい水音が静まり返った部屋の中に響く。やがて、ゆっくり顔が離れると同時、感覚の短い呼吸音をこぼす女性が力尽きたようにその場に崩れ落ちる。そんな彼女の柔肌に指を滑らせつつ、その男は、視線を彼女の足に向け――そこに刻まれた"跡"が残っているのを確認し、優しく微笑んだ。

「君は私の物だよ、フレイヤ。だから安心して、私を求めなさい」


* * *


 久々に会った姉がひどく元気そうで安心した。
 心配そうに体を触ってくる姉に笑う。
 大丈夫、これぐらいの痛みは無視できる。震える足を隠すのに必死になりながら、私は唇を釣り上げる。

「彼女にはいつもお世話になっているのですよ。しかし、心配をかけていたとは……配慮が足らずに申し訳ありません」

 私の隣に立つあの方が頭を下げる。灰色の整えたオールバックが僅かに揺れるのをぼんやり眺めると、その先で姉が楽しそうに笑っていた。

「そんなに深く謝らなくてもいいわよ! 私もちょっと心配しすぎだったのよね〜。でもフレイヤ、手紙が近況だけだったのはちょっと寂しかったわぁ」

 一年ほど前には見ることもなかった弾けた様子の姉に、私は笑いかけた。隣に立つあの方の視線が背中に突き刺さる。怖気の様なものが背筋を這ってくるのを、必死で頭の隅に追いやる。

  耐えなきゃ。
  耐えないと、姉は本当の意味で自由になれない。

 泣きそうな気持ちをぐちゃぐちゃになるほど心の隅に押し詰めて、私は、悲しそうな表情を作る。

「ごめんなさい、お姉様」

 ふと、姉のすぐ後ろに立つ青年の訝しげな視線をぶつかる。暗い赤髪に黒い瞳の青年は、姉の夫となる人で、そしてこの国の次期国王となる人だ。その彼は、私を見ながらあの方に尋ねる。

「ところで、ジェライ殿はよくお屋敷にいらっしゃらないことが多いと聞くが、旅行が趣味なのですか?」

 ほんの一瞬、あの方――ジェライ様の表情が真顔になる。しかしそれも一瞬で、あの方はいつもの朗らかな笑みを浮かべた。

「えぇ、そうなんですよ。それで彼女、フレイヤを連れまわすことも多くてね。だから屋敷にいないことが多いんです」

 声は穏やかなはずなのに、背筋がぞくぞくと震える。恐怖が体をがんじがらめにして、忘れようとしていた痛みが、けだるさがぶり返してくる。
 瞬間的に、私の体がその場に崩れ落ちる。その一瞬前に、隣に立っていたジェライ様が私の体を無造作につかむ。

「――……へまをするのかい?」

 私にしか聞こえないような呟きが、痛みを訴える体を叱咤させる。
 心配そうに近寄ってくる姉を拒絶するように首を振り、私はもう一度、自分を嘲笑うように笑う。

「ごめんなさい。お姉様と久々に会えると思ったら、昨日の夜は興奮して眠れなかったの。ふふっ、まだまだ子供ね」
「そんなことはないよ、フレイヤ。君は立派に私を支えてくれている」

 そう言って笑いかけるジェライ様の紫色の瞳は、声とは裏腹に酷く冷え切って見えた。
 ここで耐えなければ――――脳裏に嫌な予感しか思い浮かばない。私は見えない世に唇をかみしめて笑みを浮かべたまま、彼の腕の中から立ち上がる。
 すると、姉の夫となる青年がジェライ様に向き直り、黒い瞳を細めて首をかしげた。

「ところでジェライ殿、この後、貴殿にだけ少し話をしたいのだが、お時間は構わないかな? ――なにより、折角、姉と妹が再会したというのであれば、そっちも姉妹水入らずで話したいこともあるだろう」

 その提案に、ジェライ様は少し考え込むものの、こくりと首を縦に振った。

「分かりました。次期国王と対談できるなど、貴族として誉れ高いこと。――フレイヤ、"くれぐれ"も迷惑をかけないように」
「あらあら大丈夫よ、ジェライさん。私がフレイヤに迷惑かけるんだもの!」

姉の元気な声に私は嗤った。
ジェライ様の釘は、私の心を強く打ちつけ、しばりつけた。


* * *


「ヴィエルの野郎……!! プレゼントなんてまた今度でいいじゃねぇか……!!」

 山盛りの荷物を抱えながら、オーディンは城内の廊下をよたよたと歩いていた。
 結局、ヴィエルクレツィア――――ヴィエルがプレゼントを決めたのは、本日の明け方だった。
 寝ているオーディンの部屋に王子ゼロと共に乗り込んできて―― 一人で乗り込んで来なかったのは曰く『男の部屋に一人で入るなんて無防備以外の何物でもないわ!』ということらしい――彼をたたき起こすなり、買い物リストを押し付けてきたのだ。睡眠妨害などの不平不満を全く物ともしなかった彼女は、来た時と同じくらいの唐突振りで自身の眠たさを主張すると、さっさと自分の客室に引きこもってしまったのだ。
 取り残された親友に試しに文句を言ったが、代わりに帰ってきたのは、今日やってくるヴィエルの妹の、その婚約者の青年に関する話だった。

 『ジェライ=コーナー? どんな奴だよ』
 『一年ほど前に、息子が当主を引き継いだ貴族だ。代替わりと共に現当主は頭角を現し、今は貴族内でもそれなりに強い権限を持っている』
 『んで、肝心の黒い話は?』
 『なんでも、屋敷の奥に儀式場が存在する、という噂だ』
 『……儀式場? 宗教でもやってるのか』
 『詳しくは私も分からない。おまけに、それはあくまでも噂だ。
  ――ついでに、彼の家に仕えていたメイド達が何人も行方不明にもなっている、と。こちらも噂だがな』
 『ますます胡散臭いな。――ヴィエルは知ってるのか?』
 『いいや、まず知らないだろう。この話についても、私ではなく、集めたのはファレンハイト殿だ』
 『あー、あいつの情報筋だったら、そういう黒い話も出てくるか……んで、お前、どうすんの?』
 『適当にカマをかけてみる。彼だけに話をするタイミングを設けるから、その間に、お前はヴィエルと、そのフレイヤという女性を見ててくれ』

「って話なのはよかったが……もう来てんじゃねーのか……?」

 お店が開く時間と共に街へ買い出しに出たオーディンだったが、頼まれたプレゼントの量は思った以上に多かった。そのために、予想以上に城に戻ってくる時間がかかっていた。積み重ねられた箱の中身はそれなりの重さがあるため、落とさないようにするだけでも一苦労だ。

「あー、これなら親父からウィルを借りてくれば良かったぜ……」

 騎士団長である父親のパートナーであるカビゴンを思い出して、オーディンはぐったりと呟いた。大きな体を持つカビゴンは見た目通り力持ちなので、たくさんの荷物を抱えるのを得意としているのだ。
 手にしている何重もの箱がぐらぐら揺れるたびに彼は立ち止まり、態勢を立て直す。そのたびに時間をロスするものだから、オーディンは、実際に廊下を歩くよりもゆっくりなスピードで歩いていた。

「大体ヴィエルのやつも、こんなに大量のプレゼントなんぞ送ってどうするんだよ……服とか靴とかアクセサリーとか、そんな複数あっても困るだろうが……」

 それは女性ならではの感覚なのだろうか、とも思う一方で、大量の荷物を運ばなくてはならない、ということが、彼のフラストレーションを底上げしていく。
 ぶつぶつと文句を言いながら、オーディンはゆっくりとした足取りで、ヴィエルクレツィアの客間へ足を進めた。


* * *


 城内を案内する前に自分の客間に用がある、と言った姉は、ちょっと時間がかかるということで部屋の中に招こうとしてくれたが、私は辞退した。
 多分、部屋の中に入ったが最後、私はきっと、彼女の部屋を出たくなくなってしまう。そんな予感が、確かにあったからだ。
 少しだけ残念そうにした姉に、用事を済ませるように部屋の中に促し終えて、私は、近くの壁にもたれかかって、その場にへたりこんだ。

 もう限界だった。
 震えも、痛みも、何もかもが。

(……あぁ、腫れてるわね……)

 裾を引きずるほどの長いドレスで足元をごまかしていたから、その傷は見えていないだろう。
 ややありえない方向に曲がっっている右足に、両膝には激しい裂傷。ただの擦り傷から火傷した後まで様々あるそれは、きっと傷の辞典でも作ったら、十分参考になるだろうというほど多種多様にあった。

 『"くれぐれ"も迷惑をかけないように』

 ジェライ様の声が脳裏で反響すると、怖気と共に、"安堵"感を覚える。
 彼が私を気にしている限り、姉は、元気でいられるのだ。
 私の太陽で、憧れで――――劣等感を覚える人。
 姉は、この地方のために身を捧げる人だ。
 だけど、私にはそんな覚悟なんてない。
 自分を犠牲に見ず知らずの他人を助けようという高貴な心は、私には、眩しすぎた。

(だから私は……"姉の為"に、"家のため"に、身を捧げる)

 家名も、家族も。嫌いだが、捨てきることはできない。
 それは劣等感と憧れの紙一重なのだ。それを守ることが、自分の使命なのだと、何時からかそう思えた。

 廊下のどこからか足音が近づく。
 自分の腰掛ける曲がり角から首を出せば誰が来ているか見れたかもしれないが、そんな気力はもはやなかった。
 城の誰かに、廊下に座っているこの姿を見られたら、それは夫となる彼――ジェライに伝わるのかもしれない。
 廊下に座るはしたない貴族の女性だ、と。
 だが、今はどうでも良かった。

(今だけ、疲れたの。だからせめて、何も言わない人が来て)

 ドレスから伸ばしていた足を再びドレスの中にしまいこんで、彼女は息を吐いた。
 ぐるぐるとめぐる思考の渦を、泥沼におしこめて。
 そっと、彼女は近づいてくる足音のほうへ目を向け――――。


* * *


 後になって、荷物が多くて曲がり角に誰か座っていたことを見えなかったのは――――結果的に彼女を救った。
 もっとも、その点に感謝すると王妃が死ぬほどつけあがるので、彼は一度たりとも礼は言ったことはないらしい。
 そう聞いて笑える日が来るなんて、その時は思ってなかったけど。


* * *


 ドシーンガラガラガシャーン!!!

 ど派手な音をぶちまけて、オーディンはその場にこけた。

「っっつ〜〜―――!!! な、なんだ……?」

 何かにぶつかってこけたのは分かるが、何にぶつかったのか分からず、彼は荷物を整えるよりも先に、あたりを見回して――――そして、ぶつかった者に気づく。
 それは、白いドレスをまとった女性だった。裾を引きずるほどのレースをたっぷりあしらったドレスの上に、金色の髪が波のようになっている。その場でうずくまっている彼女に、オーディンは慌てて近づいた。

「おい、大丈夫か!? 悪い! まさか、誰か角にいるとは思わなくて……!」

 ふと彼女の細い腕が、ドレスの裾を強く握っているのが見えた。小さな体を震わせながら、顔を伏せて必死になってるその姿に、何か嫌な予感を覚える。

「おい、足は大丈夫か」
「…………」

 彼女は無言だった。唇を噛んでるのか、ショックで声が出ないのかは分からない。
 その白く小さなその手を、オーディンはそっと掴んだ。
 事態が読み込めなかったらしい目の前の女性は、その行動に、やっと顔を上げた。空色の瞳が僅かにうるんでいる。どこかで見たような面影のある女性を、オーディンは真正面から見つめ、

「……――悪いな」

 彼女の同意もなしに、彼は勢いよく白の裾をめくりあげ、

「ちょっと何の騒ぎ――…………!」

 扉が勢いよく開いて、中からヴィエルが飛び出してくる音。
 それと同時に、いくつもの事態が重なった。
 フレイヤが、顔を真っ赤にしつつも悲鳴じみた声を唇を噛んで押し殺す。
 ヴィエルが、妹のドレスを思いっきりめくった知り合いの姿に呆然となる。
 オーディンが、それら二人の突っ込みを聞く前に、目の前の女性を持ち上げて素早く立ち上がる。そして、

「悪い、その荷物頼む」
「ちょっ、ディンーーーー!!!!!」

 全ての突込みを放棄したヴィエルの怒声を背に、オーディンは女性を抱きかかえ、そそくさとその場を走り去った。

 その間に、あまりの事態と痛みの諸々で、女性は意識を失った。



Next... | TOP |