それは、試合が終了する少し前の時間に遡る。
オーディンは無言で廊下を歩いていた。ひたすら長い廊下に存在する曲がり道を適当にいくつかまがり、彼はひたすら歩き続けた。足取りに迷いはないのだが、行先は全く不明のまま、周囲には一切目もくれず、彼は速度を緩めることなく廊下を歩き続けて――ふと、足がゆっくりとした速度になり、ついには立ち止まる。
一度あたりを見回した鳶色の瞳が、休憩するため用に置かれた長椅子を見つけるなり、彼は再び歩みを再開。長椅子の前へ足を進める。そして、どさっという重たい音を立てて、オーディンの体が長椅子の上に乗っかる。僅かに歪むようなぎしっという音がしたものの、そんなのを気にする余裕もなく、彼は座り込んだ椅子の上で深いため息をつくなり、両手で頭を抱えた。
(……馬鹿だろ、俺)
自問自答すると、余計に気分が重くなって、オーディンは誤魔化すようにもう一度ため息をついた。
あの場にいたくなかった理由があまりにも子供すぎる自分に、彼ははっきりと嫌悪した。が、嫌悪したところで、逃げ出すような姿勢を取ったことには変わりない。
(まぁ、ロキやゼロが煩く言ってくるのが嫌だった、ってのもあるが)
何とか正当化させるための理由を考えてみたものの、それが余計に言い訳のようにしか思えず、オーディンはもう一度深いため息をついた。ふと、試合中のフレイヤの様子を思い出して、オーディンは頭を抱えていた片手を下して考え込む。
(フレイヤがあれだけ楽しそうに試合をしていたのは、多分、対戦相手と吹っ切れた理由が関係してるんだろうな。アイツだけなら、多分、ひたすら悪いことばかり考えているはずだし)
流石にフレイヤのことを傍で見てきただけに、彼女の思考パターンは何となくわかる。悪いことを考えて席を外したのであれば、多分、オーディンや誰か知っているものが呼びにいかない限り、延々と悪いことばかり考えてしまうのが、彼女の悪い癖だ。
その彼女が吹っ切れて試合に臨んだというのだから、オーディンは最初驚いた。試合に対する熱意が戻った彼女の会話を聞いて、彼は、その要因を薄々勘付いていた。それが確信に変わったのが、実際にバトルで、相手がフレイヤに対して親しげな様子で声をかけていたことだったが。
(協会四天王とフレイヤが知り合い? 城に務めてから、アイツが協会四天王と関わったことなんてないから、あるとすれば、俺が知らない過去の時代、か?)
フレイヤとオーディンの関係というのは、短くないが、しかし長いというわけでもない。彼女と出会ったのは12年ほど前だが、それより過去の話を聞くことはあまりない。
「しっかしあの協会四天王、仮面被っててフレイヤと知り合いってどういうことだ? 仮面を被ってるのはあの調子だと普段からって訳じゃねぇだろうし……ってことは、こっち来るのに身バレが困るからだろうが……まさか兄弟、とか?」
「実は元恋人でした、とかだったら楽しかったんですけどねー」
「楽しいわけあるか!!! そんなヴィエルの創作のような展開なんて、願い下げ――」
勢いと共に振り返った先に、ロキがひらりと軽く手を挙げて立っていた。どうやら彼のぼやきに返答したのは彼のようだった。右肩にちょこんと乗っているネイティが、振り返ったオーディンに向かって「トゥートゥー」と鳴く。どうにも間抜けな光景であることは言うまでもない。
数秒ほど無言で見つめていたが、やがて騎士団長は何も見なかったかのように視線を足元に向け、深いため息をついた。
「おや隊長、独り言の声量が大きかったからといって、気にする必要はそんなにないと思いますよ?」
「俺がため息をついた理由、分かってて言っているのか」
半眼で見上げると、彼はしれっとした表情で「さぁ」と首をかしげて見せる。何時でもどんな時でも、この男の表情はあまり崩れることはない。常に飄々として人を食ったような言動の同僚を、オーディンはよく知らない。
――――のだが、相手のほうは何故か、自分が知らない情報までも持っているような男だ。そして今回も、彼は肩をすくめて当然のように言った。
「先ほどメイド長と戦っていた彼は、一時期、ルアーブル家に仕えていたのですよ」
オーディンはうろんな目で仮面の男を見つめて、肩をすくめる。
「それであんなに親しかった、ってか?」
「まぁ、親しい理由は別にあるんですけどね」
そう言うなり、ロキは懐から一枚の紙を取り出して見せる。やや古そうなその紙には、小さな子供の顔写真と、人探しの文面、探している側の連絡手段が乗っている。怪訝そうな表情でオーディンはそれをまじまじと眺めて、最後の連絡手段のところに目をやったところで、ぽつりとつぶやく。
「……こいつもしかして、行方不明になったインバース家の一人息子か?」
「おや、隊長も流石に馬鹿じゃないようですねぇ」
「お前は俺に喧嘩を売りに来たのか。――確か、王家の親戚に当たる貴族、インバース家のお家騒動の結果、とかだろ。俺がガキの頃に随分出回ってた気がするが、結局、一人息子は行方知らずのまま、最終的にインバース家も没落して、現在はインバースシティのジムリーダーが領主代わり、って話だが」
「その一人息子が、一時期、ルアーブル家を隠れ蓑にしていた、としたらどうでしょう?」
「どうでしょうってお前……そんなもん、誰も気づけるわけねぇし、捜索すら出来るわけがない。ルアーブル家はインバース家同様、王家の親戚貴族だ。十数年前なんぞ、まだ貴族の力も強い頃だし、おまけに王家の親戚筋なんて、下手に突いたら何飛び出てくるか分からないってことでノータッチに決まって――……おいまさか」
半眼で同僚のほうへ顔を向けると、彼は表情の作れる左側でにこにこと機嫌のいい笑みを浮かべて頷いた。あまりにも驚愕の事実に、彼はたまらず声を上げた。
「あのアイルズって男、貴族なのか!?」
「捕捉しますと、元貴族、ですかね。ルアーブル家がどうして彼を匿っていたか、などの深い事情は知りませんが、彼はメイド長が幼少時の頃に仕えていたのでしょう。その後、ルアーブル家の援助を受けて、彼はこのキングダム地方から出ていった。名前が偽名であるのは当然のことでしょう。顔を隠しているのは、言わずもがなですよね。まぁ、向こうのほうでは隠していないようですが、幼少時の写真から彼がそうだと分かる人なんて、そもそも向こうにいるわけないでしょうから」
確かに、ロキの手にしている人探しの写真は、恐らくアイルズという男の幼少時の写真だろう。が、今の彼が例え仮面を外していたとしても、少年と青年では顔のつくりが違う可能性が高い。偽名であることも含めて、そんな突拍子もない話を信じるものなぞ、いるほうがおかしい。
が、そこまでの説明を聞いて、オーディンは少々腑に落ちない点があった。
「まぁ、あの男がフレイヤと接点があるのは分かった。だから――――何でフレイヤはあんなに嬉しそうなんだよ」
「知り合いと再会できたからじゃないですか?」
「…………」
「納得いかない顔で睨まれても、流石の私もそこまで詳細は知りませんよ。今度、フレイヤ様に尋ねたらどうです? もしくは王妃様か」
すると、オーディンが理解できないものを見つけたような顔で首をかしげる。
「何でヴィエルに尋ねなきゃならないんだよ」
「王妃様もルアーブル家のご令嬢でしょう」
ロキの言葉に、オーディンは一瞬だけきょとんとした後、難しい問題を解くような表情で眉間にしわを寄せ、両腕を組みながら小さくうめき声をあげる。
「もしかして隊長、ヴィエル様がルアーブル家の人間であったこと、忘れていたんですか?」
「いや、忘れていたというかなんというか……アイツを思い出してもただの世話の焼けるじゃじゃ馬女で、どっかの貴族女だって言われても納得できないというか、まぁそのなんだ忘れていたっていうほどでもないけど……」
手入れのされていない金髪を片手で掻きつつ、遠い目をしてその後もぼそぼそと言い訳を立て並べるオーディンに、ロキは珍しくため息をついた。
「――――ヴィエル様も物好きですよねぇ」
「なんか言ったか、ロキ?」
「いいえ別に。隊長って変な所で抜けてるな、って思ったくらいですよ」
にこりと作ったような笑みを見せれば、オーディンが僅かに視線をそらして立ち上がる。軽く肩や腕を回した彼は、体を屈折した状態で軽い深呼吸をし、ゆっくりと吐き出す。その間だけ鳶色の瞳は細まり、何もない足元を睨みつけているようでもあった。やがて、屈めていた背を伸ばすと、先ほどは見上げていた同僚を少し見下ろす形になる。
「それで。俺に用件があってきたんだろ」
「それにもやっと気づきましたか」
「悪かった。んで、何だよ?」
ガタガタンッ!!!!
廊下内に響いたその音は、金属的な物体を強く叩くような音だった。瞬間的に、オーディンとロキが音のした方向へ顔を向ける。視界に映るのは、だだっ広く続く廊下、観賞用の鉢植えのいくつか、廊下の壁とひたすら向かい合う窓ガラス、そして、天井に取り付けられた鉄格子のされた通気口。
その通気口から、なにやら白い毛がびっしりとはみ出ていた。それは風とは別に意志を持って蠢いており、どうやら通気口の鉄格子が壊せずに苦戦しているようだった。
「……なんだ、ありゃ」
オーディンが呟くと同時、白い毛が一瞬にして引っ込む。そして――代わりに飛び出してきた紅蓮の爆炎が、ジュワッと一瞬にして鉄格子を焼切る。
ガシャーンッ!と残骸となった金属が地面に叩きつけられた音に続いて、ぼと、ぼと、と重たい何かが落下する音。見れば、塞がれていたものがなくなった通気口の入り口から、なにやら変な物体がいくつも落ちてきていた
そいつらはおおよそ、この地方では見たことのないポケモンだった。やや縦長い体の頭部は白い体毛に覆われ、そこから五本の赤い角が生えている。尾のような部分を上下に動かすそいつは地面をずるずると這いずり、後からとめどなく落下してくる同じ姿の仲間達に場所を譲っていく。通気口から落下してくるそのポケモンは徐々に数を増やし、廊下を少しずつ埋め尽くしていく。
しかし、彼らは決してオーディンやロキに向かって襲いかかってくる様子はなかった。通気口から落下した後は、仲間の立つスペースを確保するために動き、その後はもごもごしながらもその場にとどまっているだけである。二人には見向きもしない。
「おいロキ。お前の持ってきた要件とこれ、関係あるのか?」
「個人的には、そうでないかと」
ボールに手をかけつつ、二人は目の前の異常な様子をじっと見守る。やがて、通気口からの落下が止まる。その場にいるのは、二人の人間と、傍にある窓も天井も覆い尽くしている数十匹以上の謎のポケモン達だった。
と、先ほどまで二人を気にしてすらいなかったそのポケモン達が、一斉に二人のほうへ顔を向ける。青いぎょろっとした瞳に晒されつつ、オーディンは小さくぼやいた。
「最近、碌でもない展開しかないのは気のせいか?」
「きっと隊長の行いの悪さですね」
「――質問を変えるか。このポケモン、お前は見たことあるか?」
「少なくとも、この地方に生息するポケモンでないのは確かです」
瞬間、そのポケモン達の口から一斉に白い糸を吹き出す。糸を吐くポケモン達の数が多いだけに、それは糸というよりも巨大な網の様だ。しかし、それだけで後れを取るような二人ではなかった。
「ヨノワール、サイコキネシス」
「ウィル、地震だ!」
ロキのボールから飛び出してきたヨノワールが白い両手を頭上にかざすと、二人に降り注いできた白い網が空中で静止。同時に、オーディンのボールから飛び出したウィルと呼ばれたカビゴンが、地面に向かってその巨体を思いっきり叩き付ける。激しい振動がその場を揺らしたかとおもうと、そこから発生した衝撃波が、糸を吹いていたポケモン達の足元を崩壊させる。
何十匹ともいえる白い毛むくじゃら達の体が、軽いボールの様にポンポンと空中に飛び上がり、次々とひっくり返って気絶する。しかし、まるでダウンした分を補うかのように、通気口から同じ姿のポケモン達が次々と落下してくる。彼らは倒れた仲間を後ろにおいやりながら、二体のポケモンと人間たちへ再び糸を吐き始める。
最初の一撃をしのいだものの、次々に噴出される網のような大群の糸に、ヨノワールのサイコキネシスが少しずつ押されていく。
「ちっ! 数で押し切られてたまるか!」
舌打ちと共に、オーディンが二体目のボールに手を伸ばし、勢いのままに振りかぶろうと――――
背後から槍のごとく放たれた雷撃が、けむくじゃらポケモン達を吹き飛ばす。
廊下が一瞬だけ強烈な光と甲高い電撃音に包まれる。オーディンはほとんど反射的に、隣に立っていたロキを片腕に抱えて廊下の隅に転がる。灰色の煙が晴れていく中、彼は雷撃が飛んできた方向へ顔をあげる。
そこに立っていたのは、まさに雷の化身だった。黒い稲妻模様の走る山吹色の毛皮、たくましい四足が踏みしめる地面からは、獣の体から発せられる電撃が周囲へ逃げていく様子が伺える。背負った雷雲からは、先ほどの攻撃の余波らしき電撃が音を立てて空中に飛散している。
通気口から落下してきたポケモン達は、最初、何が起きたのかさっぱり分からないといった様子ではあったが、雷の化身の登場により、自分たちの敵が人間たちより更に背後にいる存在だと気づく。そして、態勢を整えて、攻撃準備に入ろうと再び動き始めた。と、獣は首を持ち上げ、天を仰ぐような態勢を取り、
「ヨノワール、ウィル、まもる!」
咄嗟に放たれたロキの命令に合わせて、ヨノワールが主人たちを庇う形で、主人ではないが咄嗟のことに釣られたカビゴンのウィルが、あわてて"まもる"を発動。
それとほぼ同時に――或いはそれを見越したタイミングか――ライコウの体から激しい電撃が発せられる。先ほどよりも威力を上げた雷撃が、謎のポケモン達が放った糸のような細さと束となって、廊下にあふれている謎のポケモン達に、そして通気口の先に潜る形で放たれる。
再び、強烈な光がその場を支配し、続いた炸裂音が、大量発生したポケモン達を全て黒焦げにする。ヨノワールのおかげもあって、オーディン達は無傷であったが、先ほどまで整然としていた廊下は、今や見る影もないほどに焼け焦げていた。
「なんつー、無茶苦茶なやり方だ……!!」
立ち込める煙に何度か咳をしつつ、悪態をついたオーディンはゆっくりと立ち上がると、いましがた、電撃を放ったポケモンへと鳶色の目を向ける。
そして、そのすぐ後ろに、いつの間にか一人の女性が立っていることに気が付いた。青いお河童の髪に、同じような青い瞳、そしてその青に合わせたドレスを着こなした女性だ。彼女の前に立つ雷の化身は、距離を少しあけながらも、彼女を守る形で周囲を警戒している様子が伺える。
その女性に、オーディンは見覚えがあった。――正確には数十分ほど前、直接的な会話はしないものの、闘技場で挨拶をして、相手のベンチに座っていたのを見た。
「協会四天王のメイミ様、それにパートナーポケモンのライコウ、ですね」
いつの間にかさっさと立ち上がっていたロキが、オーディンをその場に取り残して、平然と協会四天王のメイミへ近寄る。主人へ近づく人物に唸り声をあげる四足の獣――ライコウだが、女の方もまた、ライコウの横をすり抜けて彼のほうへ歩み寄る。そして、距離が二メートルあるかないかで、互いに立ち止まる。
「あらぁ、やっぱり分かっちゃうのねぇ。キングダム地方四天王のロキさん。後ろにいるのは、同じ四天王のオーディンさんでしょう?」
「貴女様こそ、よく御存じで。流石、カントー屈指の大企業のご令嬢。情報収集には抜かりのない、というところでしょうか」
「あらあらぁ、そんなことないわよぉ。参謀長官という役職で、地方の情報を全て集約している貴方に、叶うほどじゃないですものぉ」
おっとりのんびりとしたその会話は、表面上から見ればただの社交辞令なのかもしれない。が、少し離れた位置にいるオーディンは、何か恐怖のようなものを感じた。それは、貴族と国王が集う会議などで、時折感じるような、殺気と似て非なるもの。
(とりあえず、碌でもないポケモンを退けた次は、碌でもない相手、か)
ほぼ咄嗟に、オーディンはそう思った。あの場で応戦している人間がいるにも関わらず、それを全く無視した最大威力の攻撃。最初に背後から放たれた技は運よく――もしくはあれでも計算した攻撃だったのかもしれない――彼らをすり抜けて、謎のけむくじゃらを攻撃した。が、二激目は、ヨノワール達の守るが間に合っていなければ、その場にいた彼ら全員、しばらく電撃で動けなくなっていただろう。
ポケモンの技というのは、確かに人間を殺すほどのダメージをあまり持たないという。それでも、攻撃させるにあたって全くためらいのないことから、知らない相手であれば切り捨てれるのだろう。
(いや、知らなくても知ってても、排除するとなれば誰でも切り捨てれるだろうな、あの女)
妖艶に細められた青い瞳に、オーディンははっきりと面倒くさそうな表情を向ける。続く二人の会話は表面だけを取り繕った応酬から、少しずつ違う現在の話にすり替わっていく。
「そういえば、メイミ様は次の試合に出られない、と伺いましたが。それはつまり、私が不戦勝、ということでよろしいのですか」
「えぇ、構わないわぁ。私、別に試合結果なんて興味がないものぉ」
「おや、協会四天王のお言葉とは、到底思えない発言ですね」
「だってぇ、わざわざ観衆の前で、手持ちをさらしたくないんですものぉ。とっておきっていうのは、実際に必要なところで見せるものじゃないかしらぁ」
ロキの問いに、メイミは品のよい笑みを浮かべ、のんびりした口調で返答する。
それが、オーディンにはとてつもなく恐ろしいものに見えた。敵意とか殺意、そういったものを別次元に消化させたような、そんな人間がいるなどと、考えたことも出会ったこともない。悪意ある貴族達ですら、そこにそれなりに人として見える。しかし、目の前の女性の様子は――――決定的に、人として何か欠けているように感じる。
「……それこそ、四天王としてあるまじき言葉だろ」
思わずそう呟くと、底知れない青い瞳が、ちらっとこちらに向けられる。鼻で笑うかのような穏やかな笑みで、彼女は首を横に傾ける。
「あらぁ、キングダム地方の騎士様は、とても勇猛果敢なのねぇ。私、そこまでの勇気はないわぁ」
「勇気とかそういう問題じゃないだろ。地方の四天王というのは、トレーナー達のトップに位置する人間だ。それなりの立場にいるなら、然るべき態度を見せるのが当然じゃないのか」
女性相手に声を荒げることは少ないオーディンだが、目の前の協会四天王に対して、それが無礼だとは思わなかった。メイミもまた、特に気にした風でもなく、オーディンの言葉に肩をすくめる。
「立場の違いじゃないかしらぁ。戦いっていうのは、相手を知らないことでアドバンテージが取れることだと、私は思うものぉ」
「なら、今回みたいな場合に備えたポケモンでも用意しておくべきだ。四天王ともなれば、戦いってのはどんな時にでも起こりえる。何かを守ったりする時に戦えなければ、意味がないだろ」
その言葉に。
型の良い唇が弧を描き、面白いものでも見つけたかのように、青い瞳が細められる。
「じゃあ、貴方にとって、戦いとは何かしら?」
「そんなの、色々だと思うが。ポケモンバトルは典型例だが、例えばそうじゃない戦いもある」
「そうね、私もそう思うわぁ。だから――――こうした会話ですら、ある種の戦いだと思わないかしら」
「まぁ、そうかもしれないな」
頷きつつ、何が言いたいのか分からず、彼は鳶色の瞳を細め――そこで、何か、言葉には表しにくい違和感を感じる。
踏み込んではいけない領域に足を踏み入れてしまった様な、戻ろうとして振り返った道が、何時の間にかなくなってしまったかのような、退路を断たれた感覚。
隣に立つロキが、まるで品定めでもするかのように、黒い瞳を向けてくる。底知れない不安を感じたところで、協会四天王の紅一点の唇が動いた。
「じゃあ、軽い興味なのだけれど――――貴方、ヴィエルクレツィア王妃と、フレイヤ四天王、どちらを愛してるのかしら?」
「はぁ? 何でそんなことを」
「騎士というのは、主の為ならば、命を投げ捨てれるものと聞くわ。じゃあ、もしも王妃と恋人が殺し合いをしたら、貴方はどちらに味方するの?」
「何を馬鹿げたことを言うんだ。そんなの、天変地異が起こっても」
「起きない、と言えるかしら? どちらかが操られてそうなったら? 元に戻すことが出来なかったら? ねぇ、戦いというのは、どんな時にでも起こりえるのでしょう? そうしたら、貴方は備えがあるのかしら? 戦いに対して、備えは必要なのでしょう?」
それは。
詐欺師めいた言葉だ。そんなことはないと絶対に言えるはずの言葉を、ほんの僅かにでも疑ってしまったがために、彼は返答できないでいた。
優雅な笑みで口を傾げ、彼女は彼のすぐ目の前まで近寄る。
「ねぇ――――忠誠、というのは何かしら? どうしたら、忠誠を誓ったと思えるの? 貴方が、誰かを守ることと、忠誠を誓うことと、愛すること。この三者の問題が同時に発生した時、ねぇ、貴方はどうするのかしら?」
それは。
今まで見て見ぬふりをしていた問題だ。騎士団長として、騎士として、四天王として。
そんな立場にいる人間が、どうして、全てを守ろうなどと愚かしいことを考えようとしたのか。
脳裏に、目の前の光景が遠ざかる映像がよぎる。
黒にしか見えない液体が草むらの上に広がっている。
転がるのは事切れた生物たち。
自分の見知った顔はどれも呼吸を止めていた。
そして。
たった今目の前で、人殺しを終えた人物が、唇を釣り上げて、そして、自分のよく知る声で――――。
「オーディン騎士団長」
呼ばれると同時に、ぐいっと袖を引っ張られて、オーディンは体勢を崩した。前のめりになりながらも何とか前足で踏みとどまると、裾を思いっきり引っ張った人物を振り返り――――そこでやっと、呼びかけをしたロキが、自分に助け船を出したのだと頭で理解した。
何も言えずにいると、ロキはやれやれと呆れたように肩をすくめて、オーディンの方からメイミの方に目を向ける。
「メイミ様、この騎士団長をからかっても、大して面白味はありませんよ」
「あらぁ。そういうことを言われると、ますますからかってみたくなるわぁ。それとも――貴方がお相手してくださるかしら?」
「この後のポケモンバトルで宜しければ」
相変わらず食えない笑みを浮かべて、彼はそんなことを言う。青色の瞳が、理解できないといった不信感をあらわにする。
「どうしてそこまで、貴方はポケモンバトルをすることにこだわるのかしらぁ」
「単にバトルの腕前を見たいだけ、ですよ。協会四天王でも、貴方と協会四天王長の実力は"結果"しか分かりませんから」
結果とは、何もポケモンバトルの結果だけとは、オーディンには思えなかった。
ポケモン協会は基本的にポケモンに関するありとあらゆる問題に介入する。それは何も、表だったことだけではなく――――公表されない裏側のことについてもだ。
(ロキの言う結果っていうのは、つまり、裏の仕事における"結果"ってことか)
彼の言葉をそのまま真に受けるのだとすれば、どうやら、メイミと、後もう一人――確かファントムとかいった協会四天王の長だったか――の、人前で見せれるバトルの実力を測りたいらしい。
ポケモンバトルはその実、ルールによって縛られた範囲の戦いと、ルールによって縛られない戦いでは、戦い方が異なる。前者は、とにかく相手のポケモンを倒すという戦略に基づいたものだが、後者の場合――――つまり、ルールというものが存在しない場合、それはつまり、ポケモンに命令する主のほうが狙われる可能性がある、ということだ。ポケモンを倒すのと、人を倒すのでは、戦いの仕方は大きく異なる。それは、オーディン自身が騎士団長としてよく理解していることだ。しかし、
(なんでこいつ、そんなことを気にするんだ?)
実は言っていることは方便の様なもので、真意は別にあるのかもしれない。相手の女性もそれを思ったのか、問いかけるように向ける視線は厳しいものだ。
「それ、本心かしらぁ」
「えぇ、本心ですよ。それに、協会四天王の戦いが見れないとなると、観衆もがっかりするでしょうし、協会側の質が問われるのではありませんか?」
「私としてはぁ、別にそこらへん、どうでもいいと思っているんだけどぉ」
あくまでも、本心が見えないからなのか、メイミが首を縦に振る様子はない。全く平行線状態の会話。それは何時まで続けても意味をなさないだろう。それに、
(こうやって話している間にも、通路の向こう側にいる奴らが、何時出てくるかも分からない)
ちらりと、オーディンは天上に空いてある通気口に目を向ける。入り口近くには、黒焦げで麻痺している謎のポケモン達が大量に転がっている。暫くは動けないだろうが、何時復活するか、或いは、増援が来るとも分からない。一刻も早く、原因を追究するためにこの場を離れておきたい。
先ほどはメイミにちょっかいを出したがために、危うく面倒くさい事態になりかけたが、今度は――。そう思い、オーディンはとりあえずロキに声をかけようとして、
「ではメイミ様、こういう条件はいかがでしょうか。もし、この後の試合に出て頂けるのであれば――――協会長の"正体"について、クィルイエス国王陛下にはご報告しないと誓いましょう」
瞬間。
空気が凍りついたような錯覚をオーディンは覚えた。彼自身、ロキの言う『協会長の正体』というのが何なのか分からない。だが、そのキーワードは、確かに相手にとっては致命傷を与えられるキーワードらしかった。
女性の笑みも変化していないし、ロキの雰囲気も相変わらず食えないものだ。が、何か、先ほど悪寒を感じた以上に、決定的な物を踏み抜いたような。ビー玉の様な無機質さを見せる青い視線が、じろりと、黒い紳士を射抜く。
「正体?」
「えぇ。まさか、貴方が知らないというのですか、それは想定外ですねぇ。貴方なら、彼が"どんな存在"であるのか、知っていると思いましたが。――――貴方の考えそのものを"根本的に覆す"、かの協会長の、正体を」
今度ははっきりと空気が硬化する。
先ほどまでの笑みはもはや引っ込まれれている。そして、敵意と憎悪、嫌悪の感情を、彼女は露わにさせていた。何を考えているか分からない無表情を被り、声は、さきほどまでののんびりしたものが嘘のように、固いものとなっている。
「ホント……こういう脅しをする人って嫌いだわぁ」
「それは光栄ですね。それで――如何いたしますか?」
問いに対して、彼女は肩をすくめた。それがどうやら返答で、それ以上に言うことはないのか。
くるりと二人に背を向けると、そのまま、来た道を戻る様にその場を立ち去る。傍に立っていたライコウは、一度だけ呆れたように二人の男を睨めつけるも、そのまま立ち去る主人の後を追うように廊下をかけて行った。
暫くの間、オーディンは口をつぐんでいた。すぐ横で同じように黙っている彼に問いたいことは山ほどある。しかし、そのどれもが、果たして今の沈黙を破る良い問いなのか。思いつくものどれもが、どれも意味のない問いの様に思えたのだ。
そして、先に口を開いたのは、他でもない参謀長官だった。
「やれやれ。隊長を生贄に捧げてみた甲斐はありましたね」
「おい」
「冗談ですよ。――まぁ、本当にこんな条件で戦う気になってくださったのは幸いですが」
やれやれと肩をすくめる彼は、やはり何時もの様に、相手をたばかった表情をしている。
「やっぱり、さっきバトルをするように言い募ったのには、別の理由があるのか」
「まぁ……そういうことにしておきましょう」
「まぁ、って」
「とりあえず、隊長はそこの通気口から奥を探ってみてください。――あぁ、試合のほうは心配しなくて結構です。私の次の試合はトールに任せておきますから」
トール、という青年。ロキの補佐役の彼は、騎士団でも有数の実力を持つ二人の女性達を難なく圧倒して、今回の交流試合の補欠枠に収まったと聞いた。しかし、それはあくまでも人から聞いた話だ(しかも話をしたのはフォルだ)。ポケモンバトル以外の戦いは少しだけ見たことがあるものの、肝心のそのポケモンバトルを、オーディンは見たことがない。そんな彼が果たして、自分の代わりが務まるのだろうか。
その思いが表情に現れたのか、ロキは穏やかな声で付け足した。
「ちなみに、第四試合は恐らく、向こうも補欠の少年が出てくると思いますよ。なにせ、向こうの協会四天王の長、暫くは戻って来そうにないですからね」
「は? どういうことだよ」
「簡単にぶっちゃけますと――――現在、ヴィエル様が何者かに狙われています」
酷く唐突なその言葉は、現実味を中々帯びなかった。発言をした人物を、オーディンは数秒じっと見つめた。それから、虚空に視線を向けて、軽く目蓋を下ろす。深く深く悩んだ時間は一分もないのだが、その間、オーディンはひたすらに目の前の同僚が言った言葉を思い返して、
「どうしてそうなったんだ」
「さぁ? で、どうしてか知りませんが、向こうの協会側はその情報をいち早く掴んだようで、解決の為に彼を向かわせたようです」
「何でだ。王妃が狙われているとかなんて、向こうにとっては完全によそ事だろ。そんなのにわざわざ首突っ込むとか――――いや」
嫌な予感。それを肯定するかのようにロキが頷く。
「えぇ。犯人は、協会側には心当たりのある人物なのでしょう。その人物を確保するために向かったのかもしれません」
「それは、この変なポケモン達とも関係がある、ってことか」
変な、と指さすのは、少し離れた足元に転がっている白い毛むくじゃらのポケモン達だ。何時の間にか、カビゴンとヨノワールの二匹は、麻痺して転がる彼らをせっせと一か所に集めている。
「そう考えるのが妥当でしょうね。ちなみに、王妃様がダミーであることは、既に犯人側に知れ渡っています。部屋の方を強襲されたようで」
「けが人は?」
「特には。せいぜい壁が焼けただれたくらいだそうですよ。犯人はドクロック一体で、トレーナーはその場にいなかったそうです。――――まぁ、分かっている情報はそれだけですかね」
「いや、もう一個ある。――少なくとも、犯人はこの地方に住んでる奴じゃない、ってことだ。あんなポケモン、俺は今まで見たことないぞ」
白い毛むくじゃらのポケモン。片目だけが見えているそいつは、虫のような姿をしていたが、最初に鉄格子から出てくる直前には、炎を吐き出していた。もしかすれば、炎タイプも持つ虫ポケモンなのかもしれない。博識な参謀長官は、せっせと一か所に集められているそれらを横目に見つつ、簡単に説明をする。
「先ほどのポケモン。あれは『メラルバ』というポケモンです。虫と炎の二つのタイプを持ち、本来は、イッシュ地方という地方にしか生息しないポケモンですね」
「ってことは、少なくとも自然発生じゃないな。持ち込まれたってことか?」
「そこまでは分かりかねます。ただ、私はあれだけのメラルバを全てイッシュ地方から持ち込んだようには思えないのです――――確証はありませんが」
普段は確証のないことを口にしない青年を、オーディンは思わずぎょっとした表情で見つめる。彼はこちらの反応を酷く面白がっているようで、くすくすと声を漏らして笑っていた。年下に口一つで遊ばれていることにため息をついて、オーディンはロキに背を向け、ひらひらと手を振る。
「とりあえず、ここでうだうだ言ってても埒が明かない。俺は通気口の奥を確認しに行くから、この廊下は」
「トゥートゥー」
言葉を遮った鳴き声は、通気口の向こうからだった。そこから、一匹のネイティがちょこんと顔を出す。緑の丸々とした体は煤けているのだが、ネイティは特に気にした様子はない。小さな羽をパタパタと動かしてロキの肩にちょこんと乗る。小さな口には、まだら模様がえがかれた羽のようなものを咥えていた。少なくとも、それはネイティの体の一部でもなければ、襲いかかってきたメラルバに生えていそうなものでもない。
「なんだ、その羽」
「後で分析してみましょう。ただ少なくとも、ネイティは、この通気口の奥に何かいることだけは確認してきたようですね」
「ってことは、やっぱし行ってみないと分からない、ってことか」
羽を受け取ったロキの白い手に、ネイティが体を摺り寄せる。煤で汚れるのも気にせず、労う様に自分のポケモンを撫でていた彼だが、丁度カビゴンをボールに戻してため息とともに通気口を見上げるオーディンに目を向け、
「あ、ちょっと隊長、お願いがあるのですか」
「なんだよ。下らないことなら却下だからな」
「いいえ。とっても大切なお願いです」
真剣とはいいがたい、清々しいほど何か考えていそうな笑みに、オーディンは頬をひきつらせた。
***
「まさか、向こうのやつが協会長の"正体"を知ってるとはな」
曲がり角を曲がって少し先。そこに、ポケギアを懐に戻してこちらに向き直る人物がいた。紫の髪と目は珍しくないが、男のくせに背が低く、それでいて見上げる態度が常に上から目線の様な尊大な言い方をする知り合いをメイミは現状、一人くらいしかしらない。
「あらぁ、アゼル君。ファントムさんに置いてきぼりでもくらったのかしらぁ」
「どうせ僕がいたところで邪魔になる。アイツなら、一人でさっさと仕事をこなせるだろ」
それは信頼しているわけでも、していないわけでもない、ただ当たり前のことを言っている口ぶりだ。ベンチへと歩き出す彼の後ろを、メイミも歩調を合わせて歩く。彼は振り返らず、歩く速度を変えずに問いかけてきた。
「それで、出るのか」
「えぇ、出るわぁ。でも……早く負けてもいいかしらぁ?」
「そんなに手持ちを見せるのが嫌なのか」
深くため息をつくアゼルの後ろで、メイミは唇を歪ませた。
「あらぁ、そんなんじゃないわよぉ」
「理由、違うのか」
疑問を投げるアゼルは振り返らないし、立ち止まらない。それでいて歩く速度を少し早めたのは意図的だったのかもしれないが、メイミは特に気にするでもなく、彼に合わせて歩き、振り返ることを強要はしなかった。ただ、彼の問いに答えた。
「血まみれとかで、このお気に入りの服が汚れるのは嫌だものぉ」
それはつまり、この四天王戦で"事故"が起こった場合ということか。
その言葉に、ようやく彼は立ち止まって振り返った。彼の足元にある影がゆらゆらと揺れるのが、まるで、彼が返された言葉に対する反応のように思える。メイミもまた、彼にならってその場に立ち止まった。紫色の瞳を細めてアゼルはため息をつく。
「馬鹿も休み休み言え。この交流試合で殺傷沙汰なんて、そんな馬鹿げたことをやろうものなら、協会長が黙っていないだろ」
「それもあるわよぉ。大勢の前で、あの方の顔に泥を塗りたくないもの」
肩を竦める彼女にとって、服が汚れる以外で、怪我人が出ることなどどうでもいいのだろう。ただ、それが問題になるとすれば、彼女自身以上にそのトップだ。彼女は、自分が崇拝する人物にとってマイナスになる事柄を良しとはしない。
「しかし、そう簡単に負けられても困るんだがな。次の試合までにはどうせファントムが戻ってこれるわけない。すると、自然と補欠であるシュウを出さざるを得ないが――」
「勝算が五分五分?」
「そうだ。カオスがいくら強いと言っても、今回のバトルは、"スポーツとして"のポケモンバトルだ。アイツが得意とする問答無用のものじゃない。まして、シュウがポケモンバトルに強いかどうかなんて、考えるまでもない」
今回、補欠としているシュウは手持ちポケモンだけであれば、マスターランクと言っても差し支えはない。しかし、あんな狼狽えるだけの人間が、実践をきちんとこなせるかなど、見るまでもないのだろう。
どのみち、第四試合に出るはずだったあの騎士団長は出ないだろう。あの様子からすれば、参謀長官と名乗った男は、既に騒動の話を聞いているに違いない。そして、早期解決の為に騎士団長を向かわせるはずだ。現状の警備を維持しなくてはいけないことを考えれば、手が空いているのは、現在試合をしていない人物たちだけなのだから。
しかし、事件を起こしている者達には、その動向を気取られるのは問題である。
「……――つまり、強要した理由って、単に目をそらすためなのよね……」
「どうした?」
ぼそっとした呟きを聞いていなかったアゼルが聞き返す。
しかしそれには答えず、メイミは懐からポケギアを取り出すと、もう何度も押し慣れた番号を打ち込んで歩き出した。その後ろからアゼルが追いすがってくるの姿を何となく見てたところで、相手の声がポケギアから出力される。
『メイミか。――地獄耳なのか、アンタは?』
やや低い青年の声は、メイミにとって常に聞いていたい声で、アゼルにとっては聞きなれた知り合いの声だ。アゼルがメイミの横に立ち並びつつ、少しばかり意外そうに目を丸くしていた。
地獄耳、というからには、なにかしら彼女に関する話をしていたのか。おおかた、青年の親友でアゼルが常にこき使っている別な青年――エメラルドが、青年に何かしら吹き込んでいたのかもしれない。うっすらと笑みを浮かべて、メイミは問うた。
「あらぁ。エメラルド君と、私の話題で盛り上がっていたのかしらぁ」
『何の用だ』
「ちょっと、やる気が欲しくて電話かけたのよぉ」
すると、青年はやや意外そうな声で尋ねてくる。
『次の試合に出るのか』
「本当は出るつもりなかったのよ?」
『人目を気にするお前だからそうだと思ったが。何かあったのか』
「さぁ、どうかしら、うふふっ」
彼らしい感想だ。電話の向こうでため息交じりの呆れた顔をしているのが思い浮かんだ。
ふと前方から騒がしい声が聞こえてくる。見れば、会場へと続く入口が逆光を浴びて廊下の先にぽっかり口を開けている。それを見て、彼女は何とはなしに思いつきを提案してみる。
「ねぇ、テイル君。応援の言葉とかないかしらぁ」
『それに意味があるのか』
「気分って大事だと思わない?」
少しの間、電話向こうの彼――テイルが黙り込んだ。それはきっと、こちらになんというか悩んでいるのだろう。
対戦くらい頑張れ、とでもいうのか。
怪我をするな、とでもいうのか。
相手に怪我をさせるな、というのかもしれない。
そのどれもが、確かに応援の言葉ではある。しかし、メイミが聞きたい言葉ではない。
それでも、彼の声を聴くだけでも、メイミにとっては気分がよかった。受話器越しに聞こえる彼の低い声を、自分だけが独占しているような気分になる。先ほどまでの面倒くさいという思いが消えた。この心地よい気分のまま、さっさと負けてしまおう、そう思った。だから。
『服、汚さないように気をつけろよ』
そんな言葉が出てくるとは思ってなくて。
メイミはその場に立ち止まって目を丸くした。隣に立つアゼルにも聞こえていたのだろう、彼もまた立ち止まって、本当に驚いた表情でポケギアを見つめていた。
誰もが思いつきもしない理由について、彼は、分かっていたのか、或いは、本当に偶々クリーンヒットだったのか。――だが、それは彼女にとっては酷く、
「…………あはっ……あははははっ……!!!」
廊下に響き渡ったのは、甲高い女性の笑い声だった。お腹を抱えて、彼女は嗤う。狂った機械を思い出させるその声に、アゼルが身震いしてその場から一歩距離を空ける。
そんなのも気にせず、メイミは目元にたまった涙をぬぐいながら、まだ笑いの残る声をかける。
『ねぇ、テイル君』
「何だ」
『そっちに帰ったら、何か作ってくれないかしらぁ。貴方の声を聞いてたら、お腹すいちゃったわぁ』
「アンタがそれなりの結果を出したら、考えてやる」
そこで、電話は一方的に切れた。しかしメイミにとって、それは気にする要素ではない。
自分の望む言葉をかけた彼の期待に応えようと。先ほどまでのやる気のなさを忘れて、彼女は満足そうにポケギアを懐に戻す。それから、少しだけ距離を置いてる彼に向き直り、
「ねぇ、アゼル君」
「なんだ」
「前言撤回。ちょっと頑張ってみようと思うわぁ」
アゼルが半眼で見つめてくるのも構わず、メイミは微笑みを浮かべ、背後からついてきていたライコウをボールに戻す。
そして、会場へと続く階段へと歩き出した。
***
廊下へ続く通路からお河童青髪の女性が出てきたところで、シュウは緊張した面持ちで近寄った。
「メイミさん! あ、あのその、第三試合なんですけど、やっぱりその、出て欲しいと言いますか……!!」
「あらぁ、シュウ君。心配してくれるのかしらぁ? 気が変わって出ることにしたから、ひとまずは大丈夫よぉ。――それより、そっちに傘とかないかしらぁ」
のんびりとした彼女に一も二もなく頷いたシュウが、メイミの指差す方向――ここにいる者達の手荷物やらが何故か山になって置いてある――へと走り寄っていく。そして、山をかき分けつつ彼は素直に傘を探し始める。それを、メイミの後からベンチに戻ってきたアゼルが、何とも呆れた目で見つめている。
人々のざわめきに混じって響くがさごぞ、という音を背後に、カオスがベンチに背を持たれかけたまま、灰色の空を見上げるメイミをふり仰ぐ。
「おいおい、どういう心境の変化だよ、腹黒四天王さんよー。折角、暴れれると期待してたんだがなぁ」
「カオス! 変なこと言ってメイミさんの機嫌損ねないで!!」
「あらぁ、心配ないわよぉ、カオス君。だってぇ、私の試合が終わるころまでにファントムさんが戻ってこれるわけないんだからぁ、代わりに出るしかないじゃないのぉ」
瞬間、がらがらどしゃーん、という山の崩れる音がベンチに響く。音のした方向には、白い傘を持って呆然と立ち尽くすシュウと、その横で音を立てて崩れた荷物の山がある。特に気にするでもなく、メイミはシュウの手から傘を取り上げて、
「クール協会長」
ベンチに座って、彼らのやり取りを眺めていた男性は、名前を呼ばれるとメイミのほうに顔を向けた。常に冷静沈着な彼は、やはり何時もの無表情で彼女を見返す。それにメイミは満足そうに微笑み、
「行って参ります」
「あぁ、頼んだ」
スカートの裾を掴んで軽く頭を下げる彼女に、男は小さく頷く。
そうして、不気味なほど淑女らしいおっとりとした足取りで、ポケモン協会四天王のメイミは、歓声に包まれた会場へ出て行った。
空は、何時の間にやら重たい灰色に彩られていた。
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