「ゼロ!!」

 その場でへたり込んでしまった王子の腕の中には、先ほど、彼を庇ったルアーブル家の女性の体があった。白い顔が更に白くなっていくのを呆然と眺めている彼の肩を叩き、オーディンは会場内を飛び回る獣たちを睨み据えた。
 そいつらはまさに影だった。赤い瞳を爛々と輝かせつつ、影から影に素早く移動しては、実態の捉えにくい姿を存分にいかしてホール内を動き回る。シャドーポケモンと呼ばれるゲンガー達は、いまや、逃げ惑う貴族たちの髪を引っ張ったり足を引っ掛けるなどして、慌てる彼らの姿を楽しんでいるようだった。
 最初、ゼロに向かって伸びた槍上のそいつは、ヴィエルクレツィアの体に深く突き刺さったかと思うと、赤い瞳をぎろりと動かして、すぐさま霧散してしまい、姿はない。

「一体じゃなくて数十体とか、対処の使用がないだろ……!」

 すぐ頭上にシャンデリアがあるため、大きな影が出来ずに足元に見えている中で、オーディンはポケモンを出せずにいた。下手に影の数を増やしてしまうことは、ゲンガーの付けいる先を増やすのとなんら変わりがない。
 現に、会場内で警備に当たっていた騎士団員達や応戦しようとした貴族達は、ポケモンを出すものの、その複数の影の中に入りこまれて、相手を間違って殴ったり攻撃したりと、同士討ち状態になっている。

「せめて影の出来ない廊下にでも逃げ込まないと駄目ってことかよ……おいゼロ、立てるか?」

 ちらりと声をかけた王子は、まだ放心状態だった。護衛役として傍にいたらしいカイリューは、オーディンと同じように戦闘態勢を整えたまま、その場から動こうとはしていない。
 腕の中にいる女性の胸元は、かろうじて上下してるのが見て取れる。外傷は一つも見当たらないが、槍状になったゲンガーが突き刺さったことで、外からは分からない状態になっているのかもしれない。時折、抱き上げてる彼女をゼロが揺さぶっているものの、ぴくりとも目を覚まさないのが良い証拠だ。
 大混乱なパーティ会場からは、貴族達が続々と逃げ出そうとしているが、その行動を阻むようにして、ゲンガー達が何匹も扉の前でぴょんぴょんとはね飛んでいるので、正面突破はできそうにない。

「しかし廊下に逃げるにしても、入り口が全面封鎖とか……窓から飛び降りるにしても、リスクが高すぎて……他に逃げる道なんて」
「道がないなら作る、って何で考えないかねぇ、お前」

 ふと、オーディンにとってはもはや聞きなれた人物の声が、パーティ会場内に響く。
 その声に貴族たちの髪や服を引っ張って笑いこけていたゲンガー達が動きを止め、貴族達もまた、その場に響いた声にただ目を丸くして――――会場内で一番大きな入口から、強烈な閃光が発せられる。
 悲鳴のような声を上げてゲンガー達が逃げ惑う中、閃光を背景に現れた数十匹のポケモン達が、動きを止めたゲンガー達を次々となぎ倒していく。目を傷めるのではというほどの強烈な明かりの中、オーディンがうっすらと見えた先、ポケモン達の目元に遮光用と思しき黒い眼鏡をしているのが見えた。
 そして、自分の体が浮き上がる。相変わらず会場内は昼よりも明るい光に包まれているのだが、その混乱に乗じて登場した人物とポケモンが、自分たちを持ち上げているのだと、何となく気づく。
 されるがままに――――浮いた体は光の元へ飛び込む。そして、その先の暗闇の中で、オーディンは荷物の様に地面に落とされた。不平不満の声を上げようとしたところで、自分と、一緒に抱えられていたらしいゼロとヴィエルクレツィアの上から、先ほど会場内に響いた声と同じ声が降ってくる。

「よぉ、ディンにゼロ。パーティ会場は楽しかったか?」
「ファレンハイト!」

 茶色の髪に金色の瞳の童顔男は、驚きの声を上げるオーディンに、片手をあげて気楽な様子で答えた。騎士団の参謀長官を務めるその男の横には、丸々と太った巨体を持つカビゴンと呼ばれるポケモンが、心配そうに三人を見下ろしている。横には、ヴィエルクレツィアのカイリューも同じように三人を見下ろしている。騎士団員達の電気ポケモンのフラッシュが今なお会場に向かって放たれており、応援に駆けつけてきたらしい騎士団員達が、怯んだゲンガー達を次々とダウンさせてはモンスターボールに収めているようだった。

「ウィルも、助かった! というか、ファレンハイトがウィルと一緒にいるってことは、親父たちは既に動き出してるってことか?」
「そういうことだな。とはいえ、ゲンガー達はどこから出現したかしらないが、城内のあちこちに分布してる。全部を総統するには、少なくとも朝にならないと難しいがな」
「なんとかならないのかよ! せめて、ゼロをゲンガーの攻撃から庇ったこいつを休ませる場所とか!」

 ふむ、と難しそうに眉間に皺を寄せるファレンハイトに詰め寄って、オーディンがゼロの抱える女性を指さす。彼のエメラルドグリーンの瞳が、一瞬、逡巡したように見えた気がしたが、それは気のせいであるかのように、ファレンハイトは迷いなく告げた。

「奴らは、暗闇に覆われすぎた場所では影が存在しないために、影にに入ることが出来ない。つまり、暗がりの場所に逃げ込めば、何とか休ませることはできる、と思う。城内で、ひたすら暗い場所と言えばどこだ、ディン?」
「――――もしかして、地下か?」
「正解。もう使われてないあの地下牢周辺なら、影の範囲も限られて、ゲンガー達も近寄れない。そこに逃げ込め」

 生きてはいるが目を覚まさない女性を抱きかかえるゼロの肩を叩きつつ、ファレンハイトがぼそりと呟く。真剣そうな表情で頷くオーディンだが、ゼロのほうは反応を示さない。話を聞いてないのかと思ったオーディンが、苛立たしげにその肩をつかもうとして――その腕を掴んだのはファレンハイトだった。文句を言いたげな彼の額を軽く小突く。

「ディン、お前は先に地下への入り口まで走って、様子を確認して来い。この廊下を突っ切った先の階段を下れば行ける。お前単身なら、ゲンガー相手に後れを取らないだろ?」
「そりゃそうだけど……」

 何か言いたげな瞳でゼロとファレンハイトを見つめると、彼は安心させるような笑みを浮かべて、その背を軽く押す。

「少ししたら俺も駆けつけてやる。だから――頼むぞ、ディン」

 ニッと笑って見せるファレンハイトにそれ以上文句を言えないと思ったオーディンは呆れたように肩をすくめると、サッと身をひるがえして廊下を走り抜けていく。その後ろ姿がある程度見えなくなるまで、ファレンハイトは見つめる。やがて、その姿が暗闇の奥へ見えなくなったところで、彼はその場にしゃがみ込んでため息をついた。

「ゼロ。彼女は生きている。ゲンガーが中に入って、目を覚まさないだけだ」

 その言葉に、ゼロが反応を見せる。顔を上げて、縋るような目を向けてくる。
 暗い赤の髪をくしゃくしゃと撫でつつ、ファレンハイトはエメラルドグリーンの瞳を細めた。

「今は多分、彼女の夢の中に入ってるだけだろう。ゲンガーが夢の中から出るには、そこそこ時間がかかる。大丈夫だ、ちゃんと助けてやる――……その後は分からないけどな」

 ぼそっとしたその呟きは、悲鳴が未だに乱反射しているその場所で、ゼロの耳にははっきりと届かなかった。思わず聞き返そうとしたところで、ゼロの体が再び宙に浮く。何時の間にか視線はファレンハイトを見下ろす状態となっていた。
 女性を抱きかかえた状態でカビゴンに担ぎ上げられているゼロを、ファレンハイトは満足気に見上げた。

「ほれ、頑張れ王子様。後でその妃候補の名前、教えろよ! ――ウィル、頼む。そっちのカイリューもな」

 彼の掛け声に合わせるように、カビゴンのウィルが大きな巨体からは考えられないほどの素早さでその場を離れていく。その後を追うようにして、カイリューが近寄ってくるゲンガーを片っ端から吹っ飛ばしていく。
 会場内から逃げ出そうとしたゲンガーに平然と回し蹴りを決めるファレンハイトが遠くに見えるのを眺めつつ、ゼロは、気を失ったままの女性の体を、強く抱きしめた。


* * *


『さぁ、おいでおいで』
「貴方は、どなたですか?」
『君と血のつながった存在、かな。そうだなぁ、祖先っていうんだけ?』
「血のつながった……家族、ではないでしょうか?」
『家族ねぇ……悪いけど、人間の概念なんて、僕には理解できないんだよね。まぁ、とにかく早くおいでおいで。僕は、君のことをずーっと待っていたのさ!』

 耳朶に響く心地よい声は、まるでこの世のものとは思えない印象を彼女に抱かせていた。
 しかしそれは、運命の人に出会えたかのような"背徳感"を感じさせていた。


* * *


 階段から勢いよくカビゴンが飛び降りる。思わず情けない悲鳴を上げつつも、ゼロは抱きかかえていた彼女だけは離さないようにしながら、自分を抱える巨体にしっかりとつかまっていた。そのまま階段を飛び下り終えて平坦な廊下を走っていると、やがて、地下へ続く暗がりが見えてくる。
 その入り口と思しき場所に、見知った青年が、影が出来ない暗闇の中で、ゲンガーを相手に手持ちポケモン達で応戦しているのが見て取れた。

「ディン!」
「ウィル、先にゼロ達を連れていけ!」

 カビゴンのいく手を邪魔しようとしていたゲンガー達を払いながら、オーディンが声を張り上げる。言われなくても当然、と言わんばかりに、カビゴンは走ったまま――――二人を入り口まで放り投げた。
 オーディンの頭上を通過するゼロの悲鳴が放物線上に響き渡る。地面にぶつかるのではないかというすれすれのところで、先行していたカイリューが見事に二人をキャッチ。そのまま素早く地下の階段を飛び下る。
 やがて、下っていく階段の底に、わずかな明かりが見える。迷いなくカイリューはそこへ飛び込み――――そして、ゆっくりとその場で立ち止まり、地面に足を付けた。

「ここは……」

 そこは、周囲には鉄格子のかかった部屋がいくつも立ち並ぶ――――いわゆる、地下牢のような場所だった。ただし、騎士団で管理している地下牢ではない。古びてしまったがために打ち捨てられた場所だ。周囲の松明がついており、ぼんやりとした明かりがある。しかしゲンガーがいるような気配は全くしない。
 ゼロ自身、今まで場所があるのは知っていたが、実際に来たのは初めての様な気がした。逆に言えば、何故、来たことがなかったのだろうかと思える場所でもある。住み慣れたはずの城内で、自分が全く知らない場所があるなど、考えたこともなかった。
 カイリューはしばらくきょろきょろと周囲を見渡していたが、自分たち以外に誰もいないことを確かめると、明かりがはっきりと見える場所まで歩き出て、二人をその場に降ろす。同時に、ドシンという音を立ててその場にへたりこんだ。

「すまないな。君や君の主人を巻き込んでしまって……」
「バウッ」

 深々と頭を下げると、ぶんぶん、と首を左右に振るカイリュー。ゼロもまた、あまりにも突発的な事態への緊張が解けてか、ヴィエルクレツィアを抱きかかえたまま、その場にへたりこんだ。

「恐らく、僕を狙ったということは、反王政勢力だとは思うんだが……というか、僕を狙って以降は、ゲンガー達は貴族達に対して、具体的な攻撃はしてなかったはずだから、貴族の中でも皇族に恨みを持っている人たち、って線もあるはずでー……」

 まとまりのない思考を無理にでも動かしていないと、このとんでもない事態を直面できる自身がなく、ゼロはぶつぶつと呟く。腕の中の女性が呼吸をしているのは安心要素だが、油断できるわけでもないと思うと、重い気持ちになる。

(そもそも、何故彼女は、私を庇ったんだろうか……)

 オーディンがいれば、恐らく、ゼロを庇った理由は単に恩を売っておく可能性が、などと言い出すだろう。彼は騎士団員として動いてる度に、無能な貴族達から嫌みを言われ続けてきた。騎士団と貴族達は元々仲が悪いというのも加速的な理由で、騎士団長の息子である彼は、幼いころから貴族の子供達と何度かやりあっているぐらいだ。
 ただ、ゼロは貴族の全員が全員、自らの欲で動いているとは思わなかった。ジムリーダーの中にも貴族出身の人間はいるものの、彼らは、騎士団に所属していたりするし、所属していなくても騎士団の存在の大きさを大切に思っている。統治する権力者だけでは、地方が回らないことを、よく理解しているのだ。オーディンは、そこら辺を見て見ぬふりをしている。ジムリーダーは特別。貴族はやはり貴族だ、と。

「なんか、あんまり理由とか分からないほうがいいかなぁ」

 改めて、ゼロは自分の抱きしめていた彼女を見下ろした。
 気を失っている白い頬は、今はやや病的に見えるものの、普段であれば美しさを引き立てる色をしているのだろう。金色の髪はさわり心地がよく、触れていた右手手は気づけば彼女の髪で遊んでいた。
 まるで陶磁器の様な肌を撫でる左指は、腕から頬へ、そして赤い唇に伸びる。そっと口をなぞり、その柔らかに何となく物珍しいものを見たような心地で、ゼロはそっと身を屈めて、

「お楽しみタイムは後にしろよなぁ、ゼロ。そこのカイリュー、困ってんだろ」
「うわぁつ!?」

 胃がひっくり返ったような素っ頓狂な声を上げて体を起き上がらせると共に振り返ると、すぐ横にいつの間にか腰を下ろしていた友人が、片手を扇のように仰いでいた。横に腰を下ろしていたカイリューは、何となく気まずそうな表情で視線を泳がせており、カビゴンのほうは呆れたように肩をすくめていた。
 未だに煩い自分の心臓を誤魔化す様に何度か咳払いした後、ゼロはため息をついた。

「……なんだよ、ディン。ゲンガーは大丈夫なのか?」
「そんな残念そうかつ恨みがましい目で見るなよ、お前……それがさ、ゲンガーのやつら、この地下まで入ってこれないんだよ」
「え?」

 カイリューと顔を合わせて首をかしげると、カビゴンとオーディンが首を縦に振る。

「いや、冗談じゃなくてマジで。階段をある程度下っていたところで、ゲンガー達が落ちてこれてなくてさ。なんつーか、見えない壁に阻まれている感じだった」
「ファレンハイトさん、何か罠でも仕掛けていたんじゃないかな?」
「ゲンガーだけ通れないバリアー? いや、ゴーストポケモンは通れないバリアーか? まぁ、色々考えてそうなアイツなら、そういうこと出来るのかもな。とりあえず助かったぜ。って、ウィル、子ども扱いするなよ!」

 やれやれと肩をすくめるオーディンの頭を、カビゴンが朗らかな笑みでがしがしと撫でる。笑いながら冗談半分に腕を払う親友を見つめつつ、ゼロはもう一度、自分を落ち着かせるように息を吐き出して――――ふと、腕の中の感触が軽くなったことに気づく。
 見れば、抱き起していたヴィエルクレツィアがゆっくりと立ち上がっていた。
 一瞬、目の前の事態が理解できずに、その場にいる彼女を除く全員が、やや呆然と背を向ける姿を見上げ――――その姿が、まるで吸い寄せられるように、そこよりも更に先の見えない暗い廊下の中へ、一瞬のうちに引っ張られて、そして見えなくなる。

「なっ!?」
「にぃ!?」

 事態を読み込めず素早く立ち上がったゼロとオーディン。しかし、すぐ背後からカビゴンとカイリューの威嚇の声。見れば、地上へ続く階段から、黒っぽい影がわらわらと群がっているのが見えた。爛々と光る闇の中の赤が、二人の人間とポケモンを嘲笑うかのように幾つも向けられる。
 ふと、オーディンがゼロの背を、ゲンガー達から庇うようにして押す。

「行け」
「え」
「一体何が起きてるか分からないけど、少なくとも、地上への階段が使えないようなら、奥に進むしかないだろ。だから――お前は先に行け」
「だが!」
「見初めた女くらい、ちゃっちゃか救って来いよ、王子様!」

 にやっと笑うとともに、ゼロの背中を軽くどつく。一瞬まごつくが、自分がそこに残ってできることは何もないのだということを、現実がはっきりと告げてくる。
 苦々しい表情のまま、ゼロは何とか首を縦に振ると、オーディン達を背に、ヴィエルクレツィアが引き込まれてしまった、暗闇の続く地下牢奥へを走り出した。


* * *


『やぁやぁ、初めまして。それとも、久しぶり、のほうが良いかな? 何となく、僕は君が他人のようには感じなくてねぇ。適当な人間をそそのかしてゲンガーを増殖させたかいがあったってもんさ! とりあえず、君と二人っきりになるためにバリアーを張ったけど、もう解除しちゃおう。"彼ら"はいらないからね』

 目の前にいるピンク色の生物は、彼女と同じ色をした瞳を機嫌よく細めていた。やや長いしっぽをぶらぶらとさせて、羽もないの空中に浮いてるそいつを、ヴィエルクレツィアはじっと見つめた。

「私も……貴方とは、初めてあった気がしませんわ。えっと……」
『あぁ、ミュウでいいよ。ミュウ・オリジナル。「ワールド」って名前もあるんだけど、僕はミュウと呼ばれることのほうが好きなんだ。だって、何となく"誰でもある感じ"だろう?』

 小さな両腕を広げて、ミュウと名乗った生き物は言った。やや大き目な鼻の下に見える小さな口は、小さな弧を描いている。

『君は確か、ヴィエルクレツィア、だっけか。君が、今のキングダム地方のお姫様かい?』

 ミュウの質問に、彼女は悲しそうに目を伏せて首を横に振る。

「いいえ、残念ながら私は貴方の求めるお姫様ではありませんわ」
『いやいや、そんなことはないよ、ヴィエルクレツィア――いや、長いからヴィエルでいいかな。ヴィエル、僕は君を待っていたんだ!』
「私を、ですか? ですが私は、ゼロ様を庇って死んだのでは……」
『あぁ、あれは死んだんじゃなくて、僕の手ごまのゲンガーで仮死状態にしただけだよ。んで、今さっき、ゲンガーは君の中から排除したから安心するといい。――まぁもっとも、君を助けるとか言ってるあの王子に痛い目を見せるように、張っていたバリアーを解除して残りのゲンガー達に命令もしたけどね』
「それは、どういうことでしょう……?」
『ま、君は気にしなくていいんだよ、うんうん。それより、君にお願いがあるんだ! これは、君にしか頼めない、大事な内容だよ』

 意味が分からずに首をかしげると、ミュウは嬉しそうな表情で――――しかしヴィエルを見つめる空色の瞳は冷え切った色のまま、こう言った。

『君には、この地方を救うために、生贄になってほしいんだ!』


* * *


 延々と続くのではないかと思われた地下牢は、やがて、ぽつりと終わりを迎えた。そこは、黒から白に変わった世界だった。
 まるでそこだけ空間を切り取ったようなそこは、牢屋ではなく、白い建物だった。上も右も左も足元も、すべて白に覆われた世界。
 その奥に見えたのは白でできた祭壇。
 祭壇の上には、何やら一冊の黒い本が、何故か薄い光を発して置かれていた。
 そして、祭壇の頭上。そこに、彼女はいた。

「ヴィエルクレツィアさん!?」

 白いドレス姿の白い女性は、不思議な力で頭上に浮いていた。あまりにも不可解な状況に思考が停止しそうだった。

「と、とりあえず、よく分からないけど降ろさないと――――っ!?」

 反射的にゼロが体をひねった。すると、先ほどまで自分が立っていた場所を、いつの間にかどこからか現れた黒い槍が貫いていた。その形状は、先ほど、パーティ会場で彼女を刺したそれとそっくり酷似していた。
 槍は一瞬にして霧散したかと思うと、先ほどとは違い、はっきりとした形をとる。黒い影に赤いぎょろりとした瞳が二つ、小さな手足は、しかし足元の影を操ることで自在に伸ばせるように見えた。

「さっきのゲンガーか……さっきは後れを取ったが、今回は違う」

 ボールから相棒のルカリオを出現させて、ゼロは黒の瞳でゲンガーを睨みつけた。

「キングダム地方の王子が、ただのお飾りと思わないで欲しい」


* * *


 その言葉に、実は衝撃などなかった。
 むしろ彼女にとって、それは待ちわびた祝福の言葉であった。

「――やっと、私は解放されるのですね」
『え?』
「分かりました。私の持つ力は、貴方にささげるためにあったのですね」

 ふんわりとほほ笑むヴィエルに、ミュウはとても毒気の抜けた表情を返す。大きな瞳を数度瞬いてから、目の前の獣は、ひどく変なものを見るような目を向けた。

『君は怖がらないんだね。僕が自由に動ける体を得るために、これから君を乗っ取るつもりなのに。騙されていることを分かってて、諦めたわけでもなさそうだし』
「何を言っているのですか? これは、私にしか出来ない役目なのでしょう?」

 本当に不思議そうに首をかしげるヴィエルを、ミュウは何とも理解できないといった表情で見つめる。

『まぁ、確かに僕を受け入れることが出来るのは、僕の血族、ミュウの血を引く生き物だけさ。でも、そう簡単にあきらめるもの?』
「何故あきらめるのですか? 私は、今までこの地方に生かされてきたのです。その地方に恩返しが出来るのでしたら、これ以上の喜びはありません」
『…………』

 すぅっと、ミュウはヴィエルの視線と同じ位置まで下りてくる。それから、そっと彼女の額に触れ、

『――――君は、先祖がえりを起こしていたのか。僕の本来持っていた力を、君が受け継いで、生まれてしまったせいで……』
「ええ。ですが、悪いことはなにもありません。
 私の両親は、私を生んでくださいました。例え私が、普通の人間から見れば化け物の様な能力を持っていても、今の今まで殺さないでくださいました。
 私の妹は、劣等感に感じるはずの私に優しくしてくれました。本当は自分がパーティに行きたかった気持ちを押し殺してでも、私を見送ってくださいました。
 今まで、私とお話をしてくださった方々もいます。例え、ルアーブルという家にしか興味がなくても。私の不可思議な力にしか興味がなかったとしても」
『君は…………』

 暫く、ミュウは空色の瞳をヴィエルに向けていた。
 強大すぎる"ポケモン"の力に飲まれないように、自我を保つ方法として、彼女は、相手が一番望むであろう自分を演じ続けてきた。そこに自我はいらない。相手の思考を出来るだけ汲み取ってやり、相手にとって『ヴィエルクレツィアという女性はこうであって欲しい』という図を演じ続けてきた。
 不思議な力を持った娘は、しかし手間のかからない不気味なルアーブル家の長女を
 常に妹を心配して、いつも妹にだけは甘い顔をして彼女にしか笑いを見せない姉を。
 相手に望まれた反応を返せる、器量のいい貴族の娘を。
 そこに自我などいらないのだ。相手の願望を返すだけ。そのおかげで、必要最低限の自我以外を保つ必要性はなかった。

 だから彼女には"主体性"がなかった。

 ミュウ・オリジナルにとって人間には不要だと感じる"主体性"を持たない人間がそこにいた。
 地方のためならば簡単に命を犠牲に出来る人間がそこにいるのだ。自分と同じように、地方のことを"本当に"思っている人間が。
 おまけに都合の"よすぎる"ことに、彼女は何のためらいもなく、ミュウの力も明け渡してくれるというのだ。
 しかし、彼女は――――。

『ねぇ、君』
「なんでしょうか、ミュウ様」
『あー、様はいいよ。……僕と一緒に、地方を守ってみない?』
「私、ですか?」
『うん』

 こくんと首を縦に振るミュウの前で、ヴィエルは少しだけ目を丸くした。そして、

「私なんかでよければ、宜しくお願いしますね、ミュウ」
『うん』

 今まで、バイブルを守る存在は自分しかいないと思っていた。
 この地方の為に死ぬ気が本当にあるのは、自分だけだと思っていた。
 だが、そうではないことを、その日、ミュウは知った。


  ――――その日から、僕には『同士』ができた。
  ――――その日から、私には『主体性』ができた。


* * *


 派手な音を立ててゲンガーが吹っ飛んだのと同時。空中に浮いていたヴィエルクレツィアの体が、ゆっくりと落下してくる。慌てて両手を広げて受け止めると、はっきりと女性の重さが腕の中に乗っかり、少なくとも、先ほどまで見たいに重力を無視して浮いているわけではないことを理解する。

「ふぅ……。とりあえず問題のゲンガーを倒したから、目を覚ますといいんだが……」
「んっ…………っふ、ぁ………………?」

 ぼやきと同時に、うめくような声が腕の中からこぼれ、ゼロは思わず見下ろした。
 やがて、腕の中の女性が少しだけ身じろぎをして、何度か瞬きをする。そして、ぼんやりとした表情でゼロを見上げて、

「おう、じ……さ、ま……?」
「あぁ、えーっと……私のことは、あんまりそっちで呼んで欲しくない、かな……」

 半眼で少しだけ困った表情で呟く。
 と、ぼんやりしていた彼女の目が、いきなり大きく見開かれる。空色の瞳が、興味津々といった色を帯びて、ゼロを見つめる。あまりにも真剣すぎるその瞳を直視できず、ゼロはそっと視線を外そうとして、

「ゼロ王子様ーーーー!!!!」
「え」

 がばっと両腕を広げて勢いよく抱きつてきたヴィエルクレツィアに押し倒される形で、ゼロはその場にしりもちをついた。

「あ、ごめんなさい、ゼロ王子様。私ったら、ついはしゃいじゃって……!!」
「とりあえず、王子様って外してくれ……それにその、名前呼び捨てのほうがすっきりするから……」

 もうため息しか出ないような疲れた声音のゼロに、ヴィエルは元気よく「はーい! 分かりましたわ、ゼロ」と答える。
 最初に出会った時とは全く性格の違う彼女を、ゼロは改めて見つめた。表情があまり見えないと思った白い顔は、今やころころと変化している。白い服に泥がついていることに気づいて唇をとがらせていたかと思えば、ゼロのほうを見てにこにことほほ笑んでいる。と、

「おーい、ゼロ! 無事かー!」
「ディン!」

 声のする方に顔を向ければ、カイリューやカビゴンと共に、オーディンが走り寄ってきた。

「ったく、こんな地下牢の道の真ん中で座り込んでて……お前、本当に大丈夫なのか?」
「地下牢? 何を言っているんだ、ディン。この真っ白い神殿が見え――――」

 そこまで呟いて、ゼロははたと、自分の周囲が先ほどまで延々と続いていた地下牢の道であることに気づく。やはり奥の方は先が見えない暗闇が続くだけだ。そこに存在する白い物体といえば、ヴィエルクレツィアの身に着けている白いドレスぐらいか。
 状況がよく分からず――――というか、説明できる自信もないので、ゼロは代わりに話題を切り替えた。

「ところで、ゲンガーの方は?」
「それがあいつ等、いきなりその場で痙攣して倒れだしたんだよ。で、今は虫よけスプレーでダウンしてるポケモン状態。ありゃ暫く起きそうにないな」
「あら、そうなの? もう、折角カイリューでコテンパンにしようと思ってたのにぃー」
「……………………は?」

 むーと頬を膨らませるヴィエルクレツィアを、オーディンはたっぷり十秒ほど眺めていた。やがて、

「なぁゼロ。こいつは、あのパーティ会場で挨拶してきた奴だよな?」
「そうだな」
「そうよ。何言ってるのよ、ディン。ゼロに猛烈アタックかけるのなんて、このヴィエルちゃん以外いないわよ」

 自信満々に胸を張るその女性が、パーティ会場で見た同一人物の姿をしているものの、性格というか人格がまるっきりそう見えなさ過ぎて、オーディンは半眼でヴィエルクレツィアを見つめた。

「ええと……ヴィエルクレツィア、さん?」
「あ、長いからヴィエルでいいわー。それで、なぁに、ディン?」
「何でゼロを呼び捨てで呼んでる。しかも何故俺も呼び捨てどころか短縮呼びしてるんだ」
「いいじゃない、減るもんじゃないんだしー。細かいことにケチ付ける男は嫌われるわよ?」
「なぁゼロ、こいつ、殴っていいか?」

 ぎりぎりと歯ぎしりをしながら、苦々しげにヴィエルクレツィア――ヴィエルを見下ろすオーディン。そんな彼をなだめるように、傍のカイリューとカビゴンが震えるその肩を優しく叩く。
 ゼロは改めて、目の前でヴィエルを見つめる。と、彼女はオーディンからゼロに向き直る。それによって真正面から彼女をはっきりと見つめることとなった。自身の胸元に軽く手を当てて見つめると、ヴィエルは屈託のない笑みを浮かべて、

「ところで私、ゼロに助けてもらった分のお礼をしたいんだけど、何したらいいかしら?」
「お礼?」
「ええ。危うくゲンガーに飲まれそうだったのを私を救ってくれたお礼。私にできることなら、なんでも! ねぇ、私の王子様?」

 その言葉に、ゼロは顎に手を当てて複雑な問題を前にしたかのように、眉間に皺を寄せる。と、何かいい案が思いついたらしく、彼はちょっとだけ笑い――よく見れば、視線を少しそらして頬を赤らめていたのかもしれない――、

「毎週……いや、その、問題なければ三日に一度……私に顔を見せに来てほしい」
「三日に一度だけ? それぐらいだけで、いいのかしら?」

 彼女のにこにことした笑み。
 すぐ横のオーディンが、にやにやと笑っているのが見えたが無視する。
 ゼロはもう一度咳ばらいをした。目の前の可愛らしく見える女性の肩を掴むと、出来るだけ真剣そうな顔で、

「毎日来てほしいといえば、君は来てくれるか?」
「ふふっ、私の王子様の頼みですもの。断ることなんてしないわよ」

言うが早いか、そのままヴィエルはゼロに抱き着き、そんな彼女をゼロがいとおしそうに抱きしめる。

「…………なぁ、何かあまりにも突拍子のない告白を見ている気がするのは、俺の気のせいか?」
「ガウッ」
「バウッ」

カイリューもカビゴンもゆるゆると諦めたように首を振って、状況に置いてきぼりをくらっているオーディンの肩を優しく叩いた。



* * *


「結局、その後になって犯人はあっさり見つかった。国王が国を治めるっていう体制が気に食わない貴族だな。ただ……」
「ただ?」
「……その犯人、なんか捕まった後も妙なことを言ってたんだよなぁ。『俺はピンク色の獣に騙されたんだ!あいつは、悪魔だ!』って。ただ、ピンク色の獣って言っても、いまいち想像つかないだろ? まさかポケモンが言葉をしゃべって人間そそのかすーとか、そんな変なことがあるわけないだろうし。 んで、その当時は、そいつのバックにまだ大きい何かが誰かいるんじゃないかってことで捜索されたが、結局、何も出てこなかった」

 ずずーっと珈琲をすすり、オーディンは息をついた。机の上に広げたトランプを恨めし気に眺めつつ、肩をすくめる。

「以上が、ゼロとヴィエルのなれ初めだな」
「ちなみに、ヴィエル様の『獣の姫君』っていうのはどうなったんですか? 私、そんな名称初めて聞きましたけど」

 ロキの問いに、オーディンが思い出したように両手を打つ。

「あぁ、あれな。なんかヴィエル曰く、ゼロとのあの事件以来、全然ポケモンの言葉が分からなくなったんだと。まぁ、元々眉唾物の話だったし、ヴィエルもなんかそこらへんの記憶はあいまいだったとかで、気づけばその噂も何時の間にかなくなってたな。あ、せいぜい、連れてたカイリューとの意思疎通に少し苦労した、とかだったっけか」

 そんなことをしみじみと思い出したオーディンは、ふと半眼になってロキを見ながらぼやいた。

「つーか、俺よりあの二人のどっちかに聞けばいいじゃねぇか、今の話」
「いえいえ。こういうのは第三者視点から話を聞いた方が楽しいのですよ」
「そういうもんかねぇ」

 くすくすと笑う現参謀長官のロキに、オーディンは胡散臭いものを見るような目を向ける。が、向けられた当人は特に気にするでもなく、机の上に放り投げたトランプをシャッフルし始める。

「そうですよ。まぁ、隊長とフレイヤ様のなれ初めのほうは、あのお二方よりも衝撃的な気はしますけどね」
「……何でそう思うんだよ」
「んー……勘、ですかね」

 カードをぐしゃぐしゃと混ぜる手を止めず、ロキは少し考えた後にそうつぶやいた。オーディンは答えず、まるで答えを飲み込むように珈琲を再び喉に煽る。そして空になったカップを音を立てて机の上に置くと、苦々しそうな表情で目の前の同僚を見つめる。

「さっきは負けたが、次は絶対に勝つ。んでもって、お前の口から自分の黒歴史を語らせてやる……!」
「じゃあまた隊長が負けたら、次はメイド長に言えないヴィエル様との体験でも語ってくださいね」

 ほほ笑むロキに頬をひきつらせつつも、もはや後に引けない宣言をしたオーディンは、ごくりと息を飲んで、トランプゲームに挑み始めた。


* * *


「ディンったら、勝手になれ初めの話してー……でも確かに、ロキも私やゼロに聞けばいいのよ。そしたら、いやって言うほどのラブラブっぷりのお話を聞かせてあげれるもの」
「ふふっ、そうだな」

 むすっと膨れる王妃は、どうやら食堂で賭けトランプをやっている騎士団長と参謀長官を見ているようだった。恐らくは、食堂の天井にカメラを取り付けているようで、そこから音と映像を拾っているらしかった。寝転がるベッドの上でノートパソコンをいじる彼女の手は軽快だ。
 そんな妻の様子を横目に、ゼロは机に向き直って書類を整理していた。国王になってからは、王子の時などどれだけ暇だったかを思わせるほどに忙しい日々が続いている。自分の周りには元気な者達が増えつつあるものの、相変わらずの環境であることに、彼は安堵してた。
 ――ただし一部を除いて、だが。

「ゼロ、どうしたの?」

 ふと、横から顔を覗き込んできた妻に、彼は一瞬目を丸くするも、すぐに口元を緩める。

「二人の話を聞いていたら、そういえば昔よりも書類の量が多い、と思ってな」
「最近は変なもので承認とってくるものもおおいものね。本当、ゼロも生真面目よねー」

 椅子によりかかるゼロに覆いかぶさるようにして、ヴィエルが彼を覗き込む。ふと顔を上げれば、にこにことほほ笑む王妃の顔が間近にあった。そっと手を伸ばして、降り注ぐ彼女の金色の髪を、ゼロは無意識にいじり始める。
 くすぐったそうに笑う彼女が愛おしく、彼は彼女の白い手を引っ張る。やや前のめりになるヴィエル。鼻の先がぶつかりそうな至近距離で見つめ合う。そして、どちらがともなく、ゆっくりと唇が近づいて――――。

 白い腕が振りほどかれ、ゼロの腕の中から王妃が逃げ出す。

 しかしゼロは驚かなかった。まるで予期していたかのように、彼は表情を変えず、自身と距離を置いた女性に目を向け――――先ほどまでむけていた愛情の色は消えていた。
 向けられるのは、憎悪の色。そして――――そいつは口を開いた。

『なんだい、相変わらずつまらないねぇ、君は。本当、憎らしいくらい冷淡なその顔、歪ませるのが楽しい』

 ヴィエルクレツィアの体に宿った始祖ミュウ。
 人間の可能性を摘み取り、地方を生かすことだけを考えているそれは、ゼロにとって唯一といってもいい天敵だ。

 ――――自分の本当に愛した女性に宿るそいつを、ゼロは常に憎んでいた。

『それにしても、あの時の話は今でもしっかりと覚えているよ。僕はヴィエルと契約をした。彼女の体を蝕んでいた僕自身の力を、先祖がえりによって得た力を、僕が制御する。その代わりに、今まで抑え込んでいた彼女の自我を開放する。――彼女は僕と一緒に、この地方を守ると約束してくれたんだ。その繋がりはとても深く、君にはないものだ』

 あの時から愛している女性の口からこぼれる罵倒の声を、ゼロは両手を強く握り、聞き流そうとしていた。
 しかし結局はその声をはっきりと聴いてしまう自分がおり、そして怒りがこみ上げてくる心を持っている。
 あの時、ファレンハイトは言っていた。助けた後、『その後は分からないけどな』と。人間の可能性を摘み取るミュウの血を引く女性だと、ファレンハイトは事前に知っていたのかもしれない。しかし、今のゼロは彼にそれを気軽に尋ねるほどの距離はあまりない。――人としての罪を犯した彼は今、隔離されるようにして、山の中にいるのだから。
 今にも首元に伸びてしまいそうな両手を必死に握りしめて、彼は"エメラルドグリーン"の瞳を向けた。

「さっさと消えろ」
『あーらら、酷い言いぐさ。でもまぁいいよ。僕も君みたいな偽善王はだーいきらい。あ、いや、こう言ったほうが、君には効果的か。――――私、ゼロのこと大嫌いよ! 殺したいくらいだから早く死んで!』

 酷く無邪気な女性の笑いと憎しみをはらんだその声で、そいつは、現国王に可愛らしく言い放った。瞬間、男の腕が一瞬にして目の前の女性の両肩を強く握りしめる。首に伸びかねないその手は、必死に彼女の肩に縋りついているようでもあった。
 空色の瞳が、見下すような色で目の前の男を見つめる。

『本当、皮肉な話だよねぇ。彼女が君に惹かれているのは、君が助けたからじゃない。彼女は君と一緒にいることで君を好きになったと思っているが、そんなことはない』
「黙れ」
『嫌だね。僕は、君がその憎悪の瞳を"私"に向けているのが、何よりも楽しいんだよ!! 彼女が君に惹かれているのは――――君が、バイブルの力を持つからだ。彼女の血は、僕の血が流れている。僕の血は、バイブルに惹かれる。つまり彼女の心は、君を見ているんじゃない。君が持つ「バイブルの力」に惹かれているんだよ!!!』
「黙れ!」

 ほとんど鼻先がつくのではないかというほど間近で、ゼロは悲鳴のように声荒げた。途端、目の前の女性の表情が一瞬にして変化する。
 空色の瞳を数度瞬いて、彼女は驚いた様子だった。

「ゼロ……?」

 瞬間、勢いよく、ゼロはヴィエルを突き放し、深々と頭を下げる。

「すまない。少し、疲れてて……」
「ゼロって何時も真面目ですものね〜。うふふっ、大丈夫よー。人間イライラしないことなんてないもの」

 困ったように笑ってから、ヴィエルは勢いよくゼロに抱き着く。それは彼女の昔からの癖であり、彼を落ち着かせるためによくとっている方法だ。彼の暗い赤髪をそっと撫でながら抱きしめてやると、安心したころになって、彼が同じように抱き返してきてくれる。
 抱き返してくれたゼロの頬に軽くキスをしたヴィエルは、体をゆっくり離すと、その場でくるりと回って見せる。

「あ、折角だからフレイヤから珈琲もらってくるわね。そしたら、息抜きにお茶にしましょう」
「…………あぁ」

 機嫌よさそうに部屋から出ていくヴィエルに、何となく背徳感を覚える。
 扉が閉まる音がして、ゼロは椅子に倒れこむようにして座った。
 両手を重ね合わせて息を吐き出してから、彼は弱った声で呟いた。

「それでも私は、彼女を愛しているんだ」



は紙一重



(静まり返った執務室の中、ゼロは震えそうな自分の体を強く抱きかかえた。
 不安定そうな自分の夫が落ち着きを取り戻すまで、ヴィエルは困ったような笑みを浮かべて、部屋の外に立っていた。)



20111023/まにさんからのリクエストで『国王陛下と王后陛下の馴れ初め』でした。リクエスト有難うございましたー!
オーディンから見るととても突拍子もない二人のなれ初めなのですが、互いの心境を知ってみると、意外と面白い?なれ初めとかだったりとかそんな……。
でも書いてみたら想像以上に殺伐としすぎですね!!どうしてこうなった!!(多分始祖ミュウの所為)

まぁ始祖ミュウとゼロの確執については今回書いてないのであれですが、やっぱり一番憎んでいる原因は、地方のためならヴィエル以外の人間誰でも簡単に生贄にするような奴だから、ということ。一方で、始祖ミュウは人間が愛おしい存在だというゼロの考え方は偽善者過ぎて更に生ぬるい理想論を聞いてるような感じで大嫌い、みたいな。
元々、王族に殺された存在だから王族は嫌いだけど、その中でも更に吐き気がするくらい嫌い、みたいな。もはや互いに憎すぎて殺し合いしかねないところはあるっちゃーあるよ。

ただ、二人がもめない最大の理由は、このヴィエルさん。
ゼロとしては自分の愛してる女性の中に、憎むべき存在がいるのはもう愛憎紙一重ってレベルでもだもだするし、ミュウにとっては人生で唯一「同士(或いは同胞)」とも言える存在が好いているのがゼロなので、流石に虐殺するわけにもいかないからってことで、ねちねち嫌みを言っている、という感じ。

ヴィエルは確かに、バイブルという不思議な力に惹かれている部分もなくはないけど、9割方は本当にゼロが大好き。
ゲンガーを撃退したのは、何となくみていたので(正確にはミュウがそれを見てて、それをヴィエル自身が見たものだとごっちゃに感じてる)自分を救ってくれた人物がゼロだと信じている。
そして、初めて感情を得た瞬間に見たゼロという存在は、ヴィエルにとって"感情を持ってみた初めての人の姿"であり、とても魅力的な異性に見えた。まぁ、その後も色々と見ていくうちにゼロの言動に触れてちゃんと惚れていき〜ってまぁ積み重ねはありますけどね。きっかけは本当に些細。んでもって、今も昔もゼロにべたべた。
ゼロも結構ヴィエルには甘いし、甘やかしている自覚はある。ただたまにミュウに苛められて(苦笑)それがあまりにも事実過ぎてちょっとへこんで距離を置く、みたいな。元々、豆腐メンタル的なところは……まぁあるっちゃあるw

ファレンハイトも、昔はオーディンと非常に仲がいい人でした。見た目はフォルそっくりなんだけどね、設定的に。こっちもまぁ複雑ーな事情があって、オーディンと仲たがいしたんですが。それもまた、何時かタイミングが取れれば。
(一応過去の話を置いてある倉庫にそれっぽいお話あるけどね!(()

とにかく、キングダム地方の人たちって面倒くさい人たちばっかりなのね!とか言って、あとがき終わります。
余談ですがこれ、リクエストもらってから約三日で書き上げたという奇跡。……暫く反動来るんじゃね?((
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