ユーリは視線に気づいて立ち止まり、振り返った。背後に見慣れた桜色の髪の少女が、抑えきれない好奇心を瞳に湛えて自分を見上げている。片手には黒いゴムを、もう片方の手には髪をとかすブラシを持っている。彼女が身を乗り出す。

「ユーリ! あのっ」
「却下」

彼女が何か言いだす前にはっきりきっぱり言うと、少女は驚きで眼を一杯に見開く。小首を傾げるのを見下ろして、ユーリは目にかかる前髪を軽く後ろに流しながら、肩を竦める。

「どうせ、髪を弄らせろってことだろ? 駄目だ」

にべもない返事を返してから、肩を落として残念そうな少女を取り残し、彼は振り返ることなくその場を離れた。


彼女の出現は予期していなかった。
内密に出ようと思っていただけに、タイミングが悪いとは思った。
しかし、振り返ると色々面倒な気はしていた。



どうせなら当人にそういう相談をしてくれ、と犬は本気で思った。

「ラピード、ユーリはどうしたら振り返ってくれると思います?」

とりあえず分かるはずもないので軽く呻くような声を洩らすと、エステルは話を続ける。

「リタやカロルもユーリの髪を弄ってみたいそうなのですが、この前怒られてしまったそうなんです。ジュディスは『貴方の頼みならどうにかなるわ』と言っていたのですが、ユーリは許してくれませんでした……」

あのおっさんに聞いたのか、という意図を含んで、前足と尻尾と体の上下運動で何となく中年男性を(主にだらけている感じを)表現してみると「あ」という小さな母音を洩らす。

「レイヴンは見つからなくて聞いていないんです。ラピード、探すのを手伝ってくれませんか?」

自分で探せないのか、と文句の一つでも言ってその場を去りたいところであるが、如何せん、最近主人が特に心配してやまない少女である。ほうっておくと、何をしでかすか分からない。ついでに、未だに信用のならない中年男性のところに彼女を一人向かわせるのは(何となく)危ない。後、主人がさらに心配する姿が目に浮かぶ。
渋々ながら首を縦に振ると、エステルが花が咲いたような笑顔を見せる。

「有難う御座います、ラピード!」

お礼を言われるのは別に気分が悪くなるわけでもないので、鼻を鳴らすような声を洩らすと、彼は記憶にある中年男性探しの為に鼻をひくつかせた。


「こんな場所があるなら、当人に直に言えばいいじゃねぇか…………探すか」

"規律"から抜け出して以来、あまり弄ることをしなかった黒髪を軽く掻きつつ、彼はぼやいた。



ラピードを連れたエステルがやってきた時、少女は文献である巻き物を軽く手元に引き寄せて首を傾げた。

「どうしたの?」
「あ、リタ! レイヴンを見ませんでした?」

言われて、少女は記憶を回想してみる。確かに数十分くらい前に、だらだらと下らない話を聞いてやっていた気はする。しかし、暫くしてから彼女が飽きたために巻き物を開きながら適当に相槌を打っているうちに、向こうの声が聞こえなくなり、それに合わせて相槌を止めた気はする。

「数十分前にいたわよ」
「あ、どこに行きましたか?」
「さぁ。っていうか、おっさんに用事?」

エステルが用事があるのは、大抵、あの中年男性ではなく、彼女達のまとめ役というか保護者っぽくなっているユーリである。少女の言葉にエステルが頷く。

「はい。あの、ユーリの髪を弄るのにどうしたらいいかな、と思ったので」
「確かジュディスが、エステルが頼めば可能、みたいな話をしてなかったっけ?」
「さっきユーリに聞いたら駄目でした……」

しょんぼりと肩を下ろすエステルの姿を眺め、少女は少しだけ困ったような表情で頬を掻く。皺をよせた眉間に肩指を当て、中年男性の言葉を思い返し――去り際の彼の言葉が、自然と零れる。

「『カロルのところへ行ってくるわ』とか言ってた気がするわね……カロルなら食堂でしょ。何か空腹訴えていた気がするし、あいつ」

少女の言葉にエステルが嬉しそうな表情をし、ぺこりと頭を下げる。

「有難う御座います、リタ!」
「別に……いいわよ」

エステルがラピードに声を掛けてその場をその場を走り去る。
大人しくしていることのない様子に肩をすくめつつ、しかし、満更でもない表情で、彼女は再び巻き物を開いた。


「……ったく、アイツ、どこ行ったんだか……ラピードも一緒か?」




料理を丁度作り終えた少年は、エステルとラピードの姿を見るなり、慌てた表情で皿を背中に隠す。

「ど、どうしたの、エステル?」
「あ、カロル! リタから聞いたんですけど――――」
「知らない知らない、し、知らないよ、ボクは!」

しろどもどろに呟く少年は、二人(一人と一匹)が首を傾げる。と、そのうち一匹が訝しげな表情をすると、するりと少年の背後にまわり、ウォンッ!と吠える。大慌てで後ろ手に持っていたケーキを前方へ回し――小さな母音を洩らした時には、既に、エステルの前に白い皿に乗った真っ白いショートケーキが現れ出ていた。
エステルが口を開こうとする前に、少年はケーキを飛ばさないように気をつけながら、あわあわと片手を上下に振る。

「こ、これには深いわけがね! でもでもリタには絶対に、絶対に取られるからね! レイヴンからレシピをもらったから試しに作ってただけで!」
「あ、それでしたら、カロルはレイヴンがどこに行ったか知ってますよね?」
「へ?」

両目をぱちくりと瞬かせる少年の姿にエステルが首を傾げながらも、彼女は続ける。

「あの、ユーリの髪を弄ってみたいのですが、頼んでみたら駄目だったので……レイヴンなら、良い方法を知ってるかな、と」

エステルの言葉に、少年が深い深い安堵を含んだため息をつく。

「な、何だ……てっきり、リタがケーキの話を聞きつけたのかと思ったよ……ああ、レイヴンなら、ジュディスさんのところへ行くって言ってたよ。何か『癒してきてもらう』とか言ってたかな。ジュディスなら、多分、外で運動してるんじゃないかな?」
「有難う御座います、カロル! 行きましょう、ラピード」

忙しそうにその場を去るエステルとラピードに首を傾げるも、カロルはもう一度安堵の息をつくと、傍の机の上に皿を置き、飲み物の準備を始めた。


「リタ、エステルを見なかったか?」
「どうしたのよ?」
「……ちょっとな」
「まさか逃げてるの?」
「あー……一応探してる、っていうのが正しい」
「あんた、エステルになら髪を弄らせてもいいじゃないの」
「…………とりあえず、行先知ってるのか?」
「んー、教えてもいいけど、何か食べるもの頂戴。お腹すいたのよ」
「自分で作るかカロルにでも作ってもらえ」
「エステルの場所、教えてほしいんじゃないの?」
「………………」



女性はその場に尻もちをついていたが、軽く首を振ると立ち上がり、埃を払う。
自分が思っていたよりものんびりしていたのかと思ったが、そう言うわけでもないという認識に至り、肩を竦める。平和に甘えるほど、自分は弱い心を持っていないはずだ。握りしめていたグラブをはめた手が、強く引き締まる音を立てる。

「ジュディスー!」

声に振り替えると、見慣れた少女と犬が走り寄ってきた。警戒と殺気を霧散させ、首を傾げる。

「あの、レイヴンを知りませんか? カロルからジュディスのところへ向かったと聞いたのですが」

女性はエステルとラピードを見下ろす。少女の片手には髪をとかすブラシが握られている。犬の方は呆れた様子で銜えた煙管をゆらゆらと動かしている。

「彼に相談したいの?」

こくんと頷くエステルは、自分のことをどのように思っているのだろうと、ふと、尋ねる一方でそんなことが思いつく。

「ジュディス?」

治癒の力。毒。満月の子ら。彼女は、どこまで知っているのだろう。
思考は一瞬、戸惑うことなど戦場においては許されない。
――――だから、世界はいつでも絶望している。

「……彼なら、さっき私と軽く会話してから、ユーリの部屋に行った見たいよ」
「え、そうなんですか!」

驚いた表情で口元に手を当てるエステルに、女性はくすりとほほ笑んだ。

「早くいかないと、彼、またどこかに行っちゃうんじゃないかしら?」
「はい。有難う御座います、ジュディス!」

とことこと彼女なりの急ぎ足でその場を去る姿を見ながら、女性は――先ほど攻撃をかわしたばかりか、反撃の一発とでもいうべき彼の放り投げた小刀を拾い上げてから、軽く肩をすくめた。


「ちょっと、ガキんちょ! あんた、一人で抜け駆けする気だったわけ?」
「げっ、リタ!? こ、これには深いわけ、っていうか、リタが知ったら全部食べ――あああっ、僕がレシピ見て作ったケーキが!!」
「いいじゃないの、別に。レシピあるならもう一個作れるでしょ。……うん、まぁまぁ美味しいわね」
「ううううう、一時間かけて一生懸命に作ったのにぃ……」
「おいリタ、満足したらなエステルがどこ行ったか言えるだろ」
「あれ、ユーリ、エステル探してるの? だったら、エステルは外に出て行ったよ」
「来てたのか?」
「うん、リタに聞いて僕のところ来てから、レイヴン探してジュディスのところへ行ったけど」
「…………別に、お腹空いてたのは本当よ」
「――サンキュ。ちょっと、外へ行ってくる」



男性は目を細めながら、ぼんやりとベッドに寄りかかっていた。思考そのものは空中に投げ出しているものの、意識は酷く鋭利になってしまっている。数分前に戦闘訓練をしているジュディスにちょっかいを出してしまった自分を、今更ながら呪いたくなってしまう。面倒事から逃げるためだけの軽薄な笑みが、僅かに苦味を帯びる。
ふと、離れた場所にある階段を昇る音が二つほど聞こえ、レイヴンは思わず経ちあがろうとして――地面から伝わってくる足音だけで登ってきた存在が誰だか分り、同時にそれを理解してしまう自分にもう一度苦笑。扉が開き、はたして、エステルとラピードが立っていた。

「あ、ここにいたんですね!」
「おお、どうした嬢ちゃん?」

首を傾げつつ、彼女の手元を見る。その手にブラシとゴムしか握られていないのを確認して、教えた彼がまだ彼女に場所を教えていないことに思い当って肩を竦める。そんな男性の行動に意味を見出すこともなく、彼に近寄る。

「あの、ユーリの髪を弄ってみたいのですが……どうしたら弄れると思いますか?」

素朴な少女の言葉に、男性は口元をゆるめた。

「嬢ちゃんが頼めばあっさりOKくれるんじゃないかな?」
「ジュディスにもそう言われてやってみたんですけど駄目だったので」
「で、その御当人は今どこに?」
「怒ってそのままどこかに行ってしまいました……」

しょんぼりと肩をしょげさせるエステルを見て、甲斐性のない彼を思い出し、男性は思わず肩を竦める。目の前の可愛らしい少女をないがしろにした理由は何となく思いつくが――その理由は自分が作ったのだから、知らないはずもない――それでも、少しは慰めの言葉をかけるものだろう。男性はにやりと笑ってみせる。

「ま、怒ったか呆れたかどうかはともかく、もう一度探してみたらどうだ? んで、今度は方向性を変えてアタックをかけてみ……あ」
「どうしたんですか?」

首を傾げるエステルから目を離して、男性は視線を窓の外へ向けた。


「ジュディ、エステルは」
「あら、貴方の部屋よ。多分、今はレイヴンとエステルの二人――――きりにはならないわよ、って言おうと思ったのに。あんなに焦る必要があるかしら?」



女性の言葉をほとんど聞かずに走りだした青年の焦る顔がちらりと見え、同時に、少しだけ遊び心が疼く。

「嬢ちゃん、面白い方法を思いついたから、ちょっとおじさんの目を見てくれないか?」

至って警戒心の薄い少女が頷くと、その場にしゃがみ込む。傍で訝しそうな表情をしているラピードに気づき、男性は苦笑しながら犬をなだめるように手を振ると、彼の方はもう色々反応するのを面倒くさがったのか、そっぽを向く。
首を傾けるようにエステルがその場に座って顔を近づける。足音が少し離れたところから響いてくる。気づいたラピードは扉の傍から退避すると、さっさとベッドの上に飛び乗る。
ひょいと身を乗り出して、男性は顔を思いっきり近づける。

「それは、だな――――」
「エステル!」

バタンッ、という効果音がまさにぴったりな音が部屋に響く。
ユーリは、肩で息をしながらも目の前の光景――――キスでもするのかと尋ねたくなるような全くの距離ゼロの密接状態を、三十秒ほど眺める。
エステルは驚いた様子で首を横に動かし、部屋に息絶え絶えに入ってきたユーリを見つめる。男性――レイヴンは、楽しそうに目を細め、口元を緩めながら片手を振る。

「どうしたのですか、ユーリ?」
「お、ユーリ。どうだった? おじさんが勧めた場所は随分と良かった――――」
「エステル、ちょっと来てくれないか。ラピード、そっちのおっさんを頼む」

座っていたエステルの手を掴んで引き上げるように立たせると、ユーリは彼女を連れて部屋を出る。レイヴンの声が背後で悲鳴じみたものになったが、ユーリは振り返ることはしなかった。エステルは心配そうな表情をしたものの、急ぎ足のユーリについていくことのほうに意識が奪われていたので、やはり彼女も立ち止まることはなかった。


「あー……いやもう何か最近おじさんに酷くないかー、お前さん」
「ウォン」
「主人の命令ばっかり聞いてると独立できないぞ」
「ウォンウォン」
「ま、あの二人は、弄ってなんぼだと思うんだがな……それにしても、何と言うかな」
「ウォォン?」
「こういうほのぼのしたことが出来る現実が、俺は怖い。
いつか崩壊が訪れた時――エステル嬢ちゃんが一番危ないだろうな。あれはあまりにも脆過ぎる」
「……クゥーン?」
「一度、絶望を経験した者だからこそ、そう思うのさ。
……ま、神に祈る風習なんてこれっぽっちも持ち合わせてはいないが
もしもあいつらを見守る何かがいるとすれば、そいつには是非ともあいつらの最悪の状況を
打破してくれるように言っておきたいね」



その場所は、彼らが泊まっていた二階建ての山小屋から、ほんの少し歩いたところにあった。

「わぁ……!」

口元に手を当てて彼女のエメラルド色の瞳が歓喜を孕む。傍にいたユーリが肩を竦める。

「レイヴンが探し当てた。今の時期だと、この周辺にしか咲かない花らしいぜ」

目一杯に広がるのは黄色と綿毛の花畑の前で、桜色の髪と黒い長髪が風に踊る。穏やかな陽光が降り注ぎ、彼らを優しく包む。
エステルが、ユーリの手を引きながら花畑の中へと足を踏み入れる。彼らが動くことで巻きあがった風が綿毛を空へといざなう。

「ユーリ、このお花、摘んでも大丈夫でしょうか?」
「いいんじゃねぇか。誰かに所有権とかあるわけでもないだろうし」

嬉しそうな声でその場にしゃがみ込むエステルを見下ろしつつ、ユーリは自らの長い黒髪に指を潜らせ、滑らせる。彼女は幾つかの花を見繕うと、それをせっせと手元に収めていく。すり抜ける風が木々の囁きを乗せて鼓膜を震わせる。頬を掠めるように花びらが舞い上がる。

「……楽しいか?」

するりと、そんな言葉が唇からこぼれ、ユーリは自分でも意外なほど驚く。そもそもなぜそんなことを尋ねる気になったのかが、自分の中で整理がつかない。エステルが座ったまま振り返った。両手にいっぱい詰めた花を胸元に抱きよせ、頷く。

「はい! あ、どうぞ、ユーリ」

差し出された茎のついた黄色の花を、ユーリが訝しげな様子で受け取る。すると、彼女が少しだけ不安そうに顔を下に向け、呟く。

「あのっ、さっき、髪を弄らせてほしいということを言った時に、きっと嫌な思いをさせてしまったんじゃないかと……」

ユーリはエステルを見下ろす。吹き荒れた季節風が彼の前方から髪を玩び、背へと広げる。彼はその場に軽くひざをついてしゃがみ込むと、花を彼女の柔らかな髪に挿しつつ、頭を軽く撫でてやる。

「騎士団時代は、俺も髪が邪魔だったからまとめていた。ただ、騎士団を辞めてから、何かそこら辺が面倒くさくてやってなかったんだよな」
「ユーリ……」
「だから、そうだな。久々に髪をまとめるのもいいかもな。……やってみるか?」

雲で隠れていた太陽が現れるように、エステルの表情が嬉しそうなものになる。
元気な一つ返事を返すと、その場に腰をおろしたユーリの背後にまわり、彼女はポケットからブラシを取り出して、艶やかな黒をとかし始めた。


Touch,Touch,Touch!!


(「あ、ユーリがエステルの作った花の冠を被った! むすっとしてるけど!」
 「似合いすぎて怖いわよね、あの髪型と冠って……」
 「何だか女性にしか見えないわね」
 「なんつーか、場所が場所なだけに女同士に見えなくもないんだろうな、あれ」
 木陰からこっそりと様子を伺っていた仲間達は、口ぐちに感想を述べ、その姿を眺めていた犬は呆れたような声を洩らすのだった。)

080820/時間がなくてついでに編集が面倒くさくて上げ損ねていました髪弄り話。プレイしていないときに書きあげたこともあり、レイヴンがひたすらに設定分かっていない感たっぷりの口調でした。過去話はもっと違うのイメージしていたからなぁ(苦笑)