『切り立った岩ばかりが乱立してるとはいえど、そこに隙間がないはずがない。震動とカで崩れたりするわけだからな。これと同じ原理として、どんなに繊細そうな魔物だろうが人間だろうが隙がないはずがない、と、これは明言だろ?』
仲間の中でも年配の男性のどうでもいい言葉が、まさか無駄に役立つとは思ってもみなかった。
先程落下した場所から数メートル離れたところに、その洞穴の様なその場所は存在した。様な、というのはそれが実際に洞穴なのか、あるいは先まで続いているかどうかわからないような空間だったからである。視線を向けた先、穴の奥は暗闇が続くばかりで、つながっているのか行き止まりなのか定かではない。体調を崩したエステルをその場に残しておくわけにもいかず、かといって連れてあまり奥へ行っても仕方ない。
そう判断したユーリは、あまり奥ではない、しかし実際に入った入口から少々離れたところまで来ていた。入ってくる途中、崩れた大岩が多く点在していたが、エステルを抱えたユーリでも、かがめば通れる場所である。その為か、外の大雨や強い風が吹き込んでくることもあまりない。
黒い暗雲によって引き起こされた激しい雨は雷を伴い、ついでと言わんばかりに急激な気温変化を起こしていた。洞穴に入る直前まで雹が交じった雨に打たれ続けたユーリは、現在、少ない手元でどうにか火を起こし、暖を取っていた。
「荷物は……まぁ、誰が落としたか分からないけど助かった」
幸いなことに、落下した傍で自分が使っている道具の入った袋を見つけた。それを落としたと思われるメンバーは限られるが、今それを考えても仕方のないことだと思考を中断。暖をとった火とは別に、エアルを吸った小さな洋灯型(ランプ)魔導器の放つ一定の光のもとで、ユーリは袋の中身を改めて確認した。
中に入っていたのは、固形食糧と回復系の道具、武器を手入れするための油と布、軽い毛布、そして怪我をした時の為にと持たされていた包帯とガーゼ。その怪我をした時の為と言った当人は、現在、毛布の上でぐったりとしたまま寝転がっている。
寝息は最初に倒れた時よりも安定はしていたが、それでも完全に熱が下がっているわけではない。洞穴について火を起こして横にさせる時、彼女は一度だけ目を覚ました。その際には特に追求する、ということよりも、水分を取らせることと安静にさせることに意識が向いていたため何も言わなかった。その際、彼女もまた何も言わなかったが、泣きそうな顔をしていたのだけははっきりと覚えている。
後で考えると、落下して目が覚めた直後に謝ったのは、熱が出ていたことを隠していたのだろうか、とそんなことが思い当たる。そして先程、ユーリが何も言わなかったことで、彼女は彼が怒っていると勘違いしたのではないか、と。
(流石に後半は考え過ぎか)
思わず黒髪を掻こうとして、指先にざらりとした質感を感じる。軽く手櫛をして確かめると、固まった血が乾燥したものだった。当たり前の話ではあるが、人間の体は心臓以外に死亡の可能性が高い場所としてあげられるのは脳である。打ち所が悪ければ即死であり、たとえ生きていたとしても障害が残る可能性も否定できない。
髪がざらつくところに指先を潜り込ませる。傷跡はない。しかし、触れると僅かに痛みが走り、脳髄を揺さぶる。普段の彼女が使用する治癒術では、傷跡は当然ながら痛みまで消えている。しかし、彼女がもしも最初から体調不良ですぐれない中、せめてもと傷を塞ぐために術を発動させたのなら、話は違う。
痛みとは別に、無理をさせてしまった自分へ苛立ちが募り、顔が歪む。
彼女を庇ったはずが、その庇われた当人が倒れてしまっている。彼自身は当然ながら治癒術を使う技術を持ち合わせておらず、ただ、手持ちの数少ない方法で一時的な処置をしているだけにすぎない。
「……俺はまた、何もできないのか……」
助けたつもりが、逆に彼女に無理をさせてしまった。
それは騎士団にいた状況とどこか似ている。
民の為。そう思っていたそれらが全て裏切りの一つ一つであったこと気付くと同時に、自分がいかに無力であるかを思い知らされたあの時と。
肩で支えていた鞘を強く掴む。かき集めの枝の上で踊る炎が、木が爆ぜることで揺らめき、洞穴の中に不気味なほど大きな影を映しだす。外の壁を叩く雨音が唸り声の様な音を立て、入りこんできた湿気を帯びた熱風が僅かに黒髪を撫でる。
何も出来ない煩わしさに苛立ちを内包させたまま、彼は無言で炎を見つめていた。
どのくらいの時間が経ったか、などということが分かるはずもなく、ユーリはぼんやりと顔をあげた。
寝ていたつもりは全くないのだが、何もせずに座っていたことで時間感覚が酷く曖昧になっていた。大体数時間くらい経ったと思えたのは、目の前で暖を取っていた炎の揺らめきが小さなものになっていたことに気づいたからである。濡れていた服は、暖をとったこともあってか、それなり程度には乾いていた。
洞穴は水が溜まる様な場所ではないために火が消えやすいこともなく、また天井や壁を覆うのは岩ばかりであるが、地面は若干湿っていることを除けばそれなりに柔らかい土で構成されている。彼女を横に寝かせることが出来るのはそのためであり、もしもこれが岩場であれば、最悪、体温を奪われかねない。
ユーリは眠っているエステルへと目を向けた。数時間前よりも呼吸も大分楽になっており、水分を取らせたことが幸いしたのか、少なくとも頬の赤みは取れていた。とりあえずは大丈夫かと思いつつも、心配故にユーリは彼女の額に手を当てる。一般的な人肌の温もりが伝わってくることに安堵し、同時に、気づけば冷え切っていた手を通して伝わる温かみに、思わず手を引っ込める。
ふと、身動きしていなかった彼女が呻くような声を零す。そして、ゆっくりと頭を振りながら体を起きあがらせる。
「ユーリ……?」
「起きたか。大丈夫か?」
ぼんやりとした表情で首を傾げるエステルの頭を軽く叩きつつ、ユーリが苦笑する。途端、エステルの表情が曇り、視線が下に向く。無言で彼女を見下ろしていると、小さな唇がゆっくりと動いた。
「本当は……心配、かけさせたくなかったんです……」
「やっぱ無理してたのか」
「ごめんなさい。治癒術で、どうにか、していたん、です……けど」
そのまま、再び彼女の体を斜めに滑る。伸ばした腕の中に倒れかかった体を収めてやると、疲れた表情のエステルが見上げてくる。何かを言おうとする前、そっと彼女の前に手のひらを見せるように手を掲げ、ユーリはため息をついた。
「謝るのはおかしいだろ。言っとくけどな、怒ってるわけじゃなくて呆れているんだ」
手のひらを返し、エステルの頭をもう一度軽く叩く。首を傾げるエステルの表情は、不思議そうなものと不安そうなものが混ざっている。軽く苦笑し、肩をすくめる。
「とにかく無茶するな。体調が悪いなら、今後はきちんと言えよ。そういう時は俺かカロルがカバーに入れるようにする。リタだって理由が分かればお前の援護に回るだろうし、ジュディなら率先して空中の奴ら叩いてくれるだろ。……あのおっさんは働かないなら言え。飯抜きを一度本気でさせる必要あるからな」
いつものメンバーを思い出しながら言うと、エステルもまた仲間達の顔が思い浮かんだらしい。疲労が伺える物の、先ほどの悲しみが消えた困った笑いを浮かべつつ、彼女は頷いた。
「――そうですね」
「話は終わりだ。さて、問題はアイツらとどうやって合流するか、だな」
エステルを座り直させ、ユーリは軽く背伸びをする。空気を取り入れて自らの眠気を覚ましながら、彼は思考を働かせる。
最善策としては、仲間の誰かが見つけにやってくる、ということだが、そうそう都合よく落ちあえるほど、その地区は狭い場所ではない。かといってエステルをどうにか引き連れて元の場所に万が一戻ったとして、仲間達がそこにいるかどうか保証はない。
「アイツらの行動パターンなんて、まるっきり読めないからなぁ」
「みんな、ユーリがいないと自由に動きますからね」
「だから面倒なんだよ。ったく、ラピードがいれば、もとの場所に戻っても匂いでどうにかな――――」
ドスン、と。
洞穴そのものを揺るがすような揺れに、ユーリが眉を軽く跳ね上げ、肩に寄せていた鞘を掴む。エステルが自らの武器を手に取ろうとする前に、そっと彼女の手の動きを遮り、首を横に振る。
同時に、再び湿った地面が地震のように揺れ動く。それが少しずつ連続的に続き、段々と大きな音を立てる。揺れを受けても燃え盛る炎とエアルの力を引き出し続ける魔導器の明かりを消すことなく、ユーリは音がするほうへ、暗闇が続く奥の方へと目を向ける。
そして、大きな揺れと共に地響きが洞穴内で木霊し、明かりの中にその巨体が露わになる。
「最悪、だな……」
思わず、ユーリは苦笑いと共に愚痴るしかなかった。
甲殻類かと言いたくなるような棘の生えた甲羅、水色と藍色が主体となって身体全体を追う装甲は、その魔物の体をユーリ達よりも一回りも二回りも大きいことを感じさせる。見上げた視線の先には、黄色の瞳の魔物が牙の並んだ口を大きくあけ、捕食者としての優越的な表情を浮かべている。
「ユーリ、巨大獣(ギガントモンスター)です!」
エステルの叫びと同時に、巨大な魔物の咆哮が洞穴の中に反響し、響き渡る。
柄を掴み、鞘を投げ捨ててユーリは疾走した。魔物が走り寄る彼に気づくと、先の尖った足を鎌のように振り下ろす。攻撃地点を読んで素早く横に跳び退り、その反動を利用して魔物のすぐ真下へ駆け込む。
そのまま、抜き身の剣で攻撃を放つ。しかし、その場に響いたのは刀身が魔物の体を覆う殻によって弾かれた音であった。もう一度攻撃を加えようと剣を振り上げた瞬間、死角をとった足先が、槍のような速さでユーリの体を突き上げる。呻き声を洩らすよりも前に体が硬い岩の壁に叩きつけられ、骨が軋む音を聞く。
痛みを無視してユーリが反射的に前転すると、背後を槍の矛先と代り映えのない物が通過。掠った黒髪が僅かに千切れ、暗闇に流れる。
どうにか後退しようとユーリが魔物を見上げ――体が覚えのある温かみに包まれ、咄嗟に背後を振り返る。既に治癒術を唱え終えたエステルが、武器を握ったままぐったりとした様子でその場に崩れ落ちる姿が見えた。
同時に、魔物が詠唱したことでエステルに気づいたのか、巨大な体を揺らしながら蜘蛛の様な動きで彼女のもとへと向かう。
「エステル!」
先のことを考える暇もなく、ユーリは間一髪で彼女の元に駆け寄ると同時に、華奢な体を抱きかかえる。
数秒遅れで襲いかかってきた攻撃の衝撃が、エステルを抱きかかえた彼を後方へと吹き飛ばした。
「おじさんとして思うこと。お前さん、仲間を大事にしてるだろ? その心は大切にしろよ」
「は?」
「世の中っつーのはだな、"火事場の馬鹿力"じゃないが、頑張る奴がいるという話だな。お前さんを見てると時々思うよ」
「……そろそろ世の中から引退したほうがいいんじゃないか、アンタ」
「きつい冗談だなオイ。……ま、まぁ、とにかくだ……俺みたいになるな、ってことだな」
「誰もアンタのような人間を目指していたら、世の中が終わってるだろ」
「そうですか?」
「そうでしょ。目指してたら色々終わりそうよね、その世界」
「うんうん、確かに」
「あら、あまり本当のこと言うと拗ねちゃうんじゃないかしら?」
「君たち、おじさんいじめはそんなに楽しいのかー……」
くだらなく笑ったあれは、ある意味で忠告だったのかもしれない。
体がダメージとは違う――近い感覚で言うならば受け止められたような感覚だ――ユーリは思わず身構えつつ背後を振り返る。ほんの数秒だけ見えたのは見慣れた布陣であり、僅かに光るエステルの持つ武器の先端にも、同じ文様が僅かに浮かび上がっていた。
一時的に防御力を上げる"バリアー"を、治癒術と共に二重展開したということに思い当たり、ユーリは視線を腕の中の少女に向ける。完全に意識を飛ばしているらしく眼を覚ます様子はないが、僅かに安堵したような彼女の表情が見て取れた。
何となく思い浮かんだ忠告が、今更のように意味をかみしめる。
自分の為じゃない何かに立ち向かうこと。
必要なことを求めること。
――――大切にしなくてはないらない、今の自分のすべきこと。
「ったく……無茶するな、って話したばかりだろうが。――人のことは言えないけどな」
悪態をつくも、口元には隠すことのない苦笑。
抱きかかえていたエステルをその場に下ろし、ユーリは前方へ目を向ける。吹き飛ばされた場所は先程の地点からそれほど離れているわけでもないところだった。それなりに大きな岩が点在し、二人の姿を隠すには丁度いい場所である。
どうやら魔物自身は光に強くないのか、焚き火や灯りを放つランプを煩わしそうに吹き飛ばすと、獲物であるユーリ達を探しているのか、ぎょろりと黄色の目を動かす。鋭い両足の先端を自らの眼前で交差させて叩くことで、力強さをアピールする姿が、洞穴の中で大きな影となって映る。
ユーリは懐に手を潜らせ、道具を二つほど取り出した。ひとつは小さな虫眼鏡の様なもの、もうひとつは小さなボトル。あまり明るくはない洞穴の中でそれを確かめると、ユーリは巨大な魔物のもとへ駈け出した。
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