決して届くことの無い外に憧れを抱きながら、彼女は午後のひとときを過ごしていた。



少女はいつものように白い部屋にいた。
看護婦はとうに片付けを済ませ、部屋の中にいるのは彼女だけである。
躯を上半身だけ起こしており、人形のような整った顔は、じっと目の前の白い壁を見つめている。
やがて、彼女は緩慢な動作で顔を横に向けた。部屋に一つしかない、扉へ。同時に。

「悪いな、ワカナ。約束の時間に遅れて!」

片手に持ち運びがしやすい簡素なケーキ箱を持って、足元に尾が二股に分かれた獣を連れたエメラルドの声に、ワカナはやはり無表情だった。ただし、ベッドに投げ置いていた手を胸元で重ね合わせ、軽く頷いて見せた。

――――まるで、安堵しているかのように。


* * *


部屋に入ったエメラルドは、手馴れた様子で傍の椅子に座ると、机の上に置いたケーキ箱を広げながら肩を竦める。

「いやな、本当はもう少し早く来て驚かしてやろうと思ったんだけど、俺のとこの上司が『仕事やってからにしろ』、ってやっかましくてさぁ。最近、直属部下つけたのに、仕事を悉く押し付けてくるしで。あーあー、ファントムだってサボってるのになー。ま、そんなわけで遅れちまったけど……気に障ったか?」

彼女が緩々と首を横に振ると、エメラルドは「そうか」と呟いて苦笑。同時に、開き終えた箱を彼女に見えるように傾ける。中には、それぞれ別々の飾りつけとフルーツを使用した四種類のケーキが入っていた。
一度の瞬き。同時に、ワカナが首をかしげる。
その様子にもう一度彼は苦笑し、ケーキの箱を持ち上げると、躯を少しだけ前のめりにして彼女に近づく。それによってケーキとそれを眺める彼女の顔の距離が縮まり、ほんの僅かな甘味のある香りが、彼女を鼻腔を擽る。

「ほら、言ってたケーキだ。俺の親友に無駄に料理上手い奴がいるって話をしたろ? で、そいつに頼んで作って貰ったのさ。あ、気にするなよ。アイツはこういうのを作るの趣味だし、今回も呆れながらだけど……まぁ、楽しそうに作ったしな」

驚いた表情の彼女の頭を優しく撫でながらエメラルドは笑い、足元のエーフィが肩を竦めたように頭を垂れ、呆れた様子で首を振る。
しかし、ワカナは広げられた箱を眺めてもう一度首をかしげると、上目遣いにエメラルドへと目を向ける。最初、その真意が理解できずに彼もまた首を傾げたが、納得した表情をすると、彼女の頭からするりと手を下し、華奢な肩を軽く叩く。

「好きなの選べってことだよ。いっぺんに全部喰うわけじゃねぇんだし。残りは冷蔵庫に入れときゃもつだろ。――あ、お前さ、ベリー系とかレモンは平気か? アイツ、『どれか嫌いなのあったら食べれないだろうが』って言って、ある奴と無い奴作ったんだよ。確かえーと……それが普通の苺のショートケーキ、そっちがチョコレートケーキ、これがレモンケーキで、こっちがラズベリーケーキだとさ。――で、どうする?」

しかし、彼の言葉にやはり困ったのか、首を傾げ――彼を見つめ、唇を動かす。

あなたが、えらんで。

今度はエメラルドが困った表情をし、少し考え込む。足元のエーフィは我関せずと言った様子でそっぽを向いているので、ますます自分の判断に委ねられた為に、彼は肩を竦める。そして、

「んじゃまぁ、ここは王道っつーことで……ショートケーキでいいか?」

こくん、と彼女が首を縦に振ったのを確かめると、彼は手掴みでケーキを取り上げ、傍の机の上に広げた箱を置き――ふと、重大な問題に気づいたのか、空いた手で軽く口元を押さえ、呟く。

「あー、皿とかフォークがねぇじゃんか」

困った表情でケーキを持ったまま思案し始めるエメラルドを、ワカナは暫く見つめていた。が、ゆっくりと躯を前のめりにし、彼が掴んでいたケーキに顔を近づけ。

かぷり、と。

小動物が餌を食べるように、口を小さく開くと、彼女がケーキの先端にほんの少しだけ口に含む。無表情のままゆっくりと租借し、その間も、じっと彼の手の中にあるケーキを見つめている。
やがて、彼女がゆっくりと顔を上げた。目の前の出来事に驚いたのか、何度か瞬きをする彼を見上げつつ、唇を動かす。

おいしい。

彼女の唇が声にならない言葉でそう紡ぐ。少しの間だけ、エメラルドは逡巡した表情を見せる。が、それも一瞬だった。

「そっか」

彼は――楽しそうに笑いつつ、空いた手で彼女の頭を優しく撫でながら、そっと彼女の口元にケーキを寄せる。一度首をかしげるワカナに頷いてやると、今度は意図を汲み取ったのか、少しずつながらも彼女がケーキを口に運んで行く。
やはり表情は全くの無を体現しているが、少なくとも、そこに"興味"というのが湧いているようだった。口元に白いクリームが跳ねているものの、しかし彼女は全く気づく事無く、地道にケーキを租借している。

「全く……俺にも味見させろって」

ぼそりと苦笑気味に囁くと、彼女が首を傾げつつも彼のほうへ顔を挙げ――頭を撫でていた手で彼女の口元のクリームを掬い取り、ぺろりと舐め取る。
ぱちくりと、やはり無表情のまま瞬きをするワカナの様子に、やはりエメラルドは苦笑しながら、そのまま餌付けのようなことを再開した。


とある午後の切れ端


(暫くして、暇になったエーフィは主人と少女が自分のほうに興味を向ける気が無いのを悟ると、俊敏な動作で机の上に置かれてあるケーキの一つにかぶりつく。そして、そのまま部屋の隅まで移動し、邪魔にならない程度の音で、ケーキを呆れた表情でもぐもぐと食べ始めるのだった。視線の先には、今だ機嫌の良い主人と少女の姿があった。)
080308/「結構エメラルド君はいい思いをしてる感じがしないでもない」という話を受けて書いてみたほのぼの話。
結論から言うならコイツはタイミングを掴み間違いさえしなけりゃ多分運が良い……と思う。