たったひとつだけ、願いが叶うと言うならば。


私は望むことがある。命よりも、もっと、大切な事。



あの人と、雪を見ること。
なんて、幼稚な願いなんだろうか。



雪を見ながら、ただ、そう思う。



「雪を、見てみたいんです。ほんの少しでも、良いから」

合わせた両手の平を胸元に置き、そっと彼女が微笑む。その様子はきっと、白があれば、すんなりと馴染んだのだろう。雰囲気にも、背景にも、彼女の、色にも。

「雪?」
「ええ。"しんしん"と降るんですよね?」

夕飯を食べ終わり、ソファーで一息を付いていたそんなとき。
腕の中で金色の髪を眠たそうに揺らしていたホウナは、そんなことを呟くと、首を傾げてファントムを見上げる。
同じ"島出身"と言えど、ファントムは温暖な気候であり続ける島の外に何度も出ている。なので、当然雪などは何度も目にした事があった。
ただ、それを音と言う形容詞に表すのは少々厄介だ。
多分彼女が言うのは、本に乗っている擬音語の事なのだろう。そんな軽い目星を付け、苦笑。

「雪に音は無い。雪が降ると言うのは、世界から音が消えるんだ」
「音が、消える?」

首を傾げるホウナの手は、ファントムの銀色の髪を撫でていた。手触りの良い心地に満足げな笑みを浮かべ、頬を緩ませている。
ファントムもまた、ホウナの金色の髪を一房ほど手に取る。手に馴染むさらりとした感覚に表情を緩めつつ、言葉を続ける。

「なんて言うんだろうな……その場に存在する"音"というものが全て、雪に吸い込まれるのさ。呼吸も、足跡も、雪が降るという事すらも、な…………神秘的、と言う言葉が似合うのか? あんな感じは」

最後は両腕を組んで少し難しそうな表情をして呟く。その様が面白かったのか、ホウナはくすりと声を漏らして笑う。

「なんだか、ファントムさんが言うとあんまり神秘的に聞こえませんね」
「それは随分と心外だな」

揃って笑いあい、顔を見合わせる。梳いた髪の間から互いの顔が伺える。
沈黙を破ったのは、彼の言葉だった。表情を緩ませたまま、少女の髪を梳く動作はそのままに、呟く。

「何時か、見に行くか」
「え?」
「雪を見たいのだろう? カントーとジョウト地方の間にある"シロガネ山"という山には、沢山の雪が積もるそうだ。ホウエン地方は温暖だからな、雪山どころか、雪すらもあまり見ない」

記憶の中にある雪が降る光景を思い出しながら、ファントムが目を細めながら続ける。

「だから、お前が島を出ていい年齢になったら、行ってみるか、この地方ではない場所へ」

どこか哀れむような、それでいて悲しそうに呟くファントムを見上げ、ホウナが首を傾げる。彼はただ、彼女を見下ろし、普段とは違う、崩れそうな、乾いた笑いを見せる。
ホウナが、一度だけ深く、瞼を下ろす。
今度はファントムが不思議そうに首を傾げてみせる。
そうして、うっすらと開いた"目蓋"の下にあった紫苑の瞳は、透明過ぎるビー玉のように、何も感情を通さない、そして映さない、それだった。

「そうですね。何時か、きっと――」

戦慄ではない。

恐怖ではない。

彼を映さなかったのは拒否でも否定でもましてや拒絶ではない。

やんわりとしたホウナの声を聞きつつ、ファントムはただ呆然としていた。
彼女が腕にしがみついてくる。
体重が後ろにかかってくるのは、その躯が寄りかかってきているからである。気がつけば、彼の腕の中にすっぽりと収まる形で、彼女はいた。
――――ゆっくりと、口を開いて言う。

「外に出て、雪を見ましょうね」

共に見る事は叶わないとドコカで知っていた。
それでも彼は、心を押し隠して頷いた。


背後に白い死神を宿して。


(腕の中で笑う彼女は、彼に壊れた人形を連想させた。それが彼の心にさざ波を湧き立たせた。)

070614/ファントムがホウナの命があまりないことを知っていた時の話。彼にとってもはや彼女を失うことは世界を敵に回してもいいくらいだった、とかなんとか。
何とも依存的な思考。それくらいに愛していたっぽい。