優しいホットミルク
喘ぐ、喘ぐ、喘ぐ。
ただ息苦しいまでの縛られた感覚が体から離れない。
手を伸ばそうとする。鎖が体に食い込んで悲鳴を上げそうになる。動けない自分がもどかしい。
目の前だ。すぐ目の前。後一つ歩を進めれば全てが変わる。
守るのだ何を世界なんて我々に牙しか向けないのだ人間もポケモンも異種を嫌って我々を受け入れないのだ。
自分を理解してくれた者達が世界のすべてだとお前は言うのかならばそれが崩れればお前もまた絶望を覚えるのだろうな。
だから、頼むから動けと、自分に体を叱咤した瞬間に、体に激痛が――――。
三本指の手で胸元を無理やり掴み、"サイコキネシス"を発動。強力な超能力で心臓を押さえつけ、呼吸する回数を減らす。一歩間違えれば死ぬような状態にさせないと落ち着かないのは分かっていたし、これぐらいの無理はある意味で日常だ。数度咳こみながらも、自分の身体全体を操っていくうちに、冷静さを取り戻していく感覚を覚える。興奮状態だった頭が音もなく冷えていく。
暫くしてから、ミュウツーは紫煙色の目を見開いた。呼吸は落ち着いている。両手は自由で、両足も尻尾も、何も締め付けられている個所はない。
何か夢を見ていた気がするのだが、思いだす努力などするつもりはない。
(思い出すほど大切なものなんて、俺にあるわけがねぇだろ)
胸中だけで自嘲気味に呟き、ミュウツーはその場で立ち上がった。
寄りかかっていたベッドには、新しい主人である少年がぐっすりと眠っている。全く無頓着なその寝顔に、ミュウツーは苛立つことなどせず、むしろ楽しいそうに笑う。
「ったく……もう数ヶ月後には旅立つつもりだってのに、こんな調子でいいのかねぇ」
指先で頬をつついてやるが、起きる様子はない。別に起こすつもりもないので、そっと手を放してから、彼は主人に背を向けて音も立てずに部屋の外へ出る。静まり返った廊下の上を歩き、階段を下りる。音を立てないように宙に浮いてもいいのだが、そこまで手間をかけるほど、この家に気を使うほどでもない。
階段を下りていくうちに、ふと、階段下の部屋から明かりがもれていることに気づく。リビングルームへ続く扉の中央にはすりガラスがはまっており、明かりはそこから漏れているようだった。
「おや、カオス。起きたのかい?」
扉を開けると、新聞を読んでいたこの家の住人である男性が、顔を向けてきた。
「寝つき悪くてな。ってか、お前はまだ寝てないのかよ」
誤魔化す必要性もないので、正直なことを呟いてから、カオスと呼ばれたミュウツーは目の前の男に胡乱な眼を向ける。男の背後、窓の向こうに見える月はすでに高い位置にあり、夜も随分と深まってきているのが分かる。既に大抵の人間達は眠っているはずだろうが、目の前の男は全く眠そうな顔はしていない。
男は湯気の立つコーヒーを片手に――入れたばかりなのだろう、近くに置いてある空のコーヒーサイフォンから香りが漂う――新聞を畳みながら困ったように笑う。
「私も寝つきが悪くてね。このまま徹夜をするつもりだよ」
「そんでもって営業中に寝るたぁ、大層な身分だよなー」
「ふっふっふ、私もカフェのマスターだからね。そういう特権くらい」
「ポケモン協会副会長が仕事さぼって店開いてる特権か?」
「……容赦ないね、カオス……」
「暇だしな」
傍にあった椅子に腰を下ろし、男と向い合せになると、ミュウツーは机の上に顎をついた。男性はコーヒーを一口啜って、首を傾げる。
「眠れないのかい?」
「いや、そんなことないと思うんだが……」
紫色の瞳を細め、意識を眠りの方へ向けようとしてみるが、そうすればするほどに、頭は活性化していき、思考回路が「どうやって眠くさせるか」ということにいってしまう。
面倒くさそうな顔でミュウツーが暫く唸っていると、唐突に男性が立ち上がる。首を傾げると、彼はミュウツーの頭に軽く手を乗せ、
「ちょっと待っていなさい。良いものを持ってくるから」
男がミュウツー専用のマグカップを持ってきたのは、それから数分程度たってからだった。真っ白い湯気の向こうに見える男の顔を眺めると、彼は小さく笑う。
「そんなに見つめられると困るなぁ」
「困ってしまえ。つーか、何持って来たんだよ」
コトン、と置かれたマグカップを覗きこむと、中は白い液体であふれていた。微かに息を吹きかけると湯気が霞み、水面に幕が出来る。立ち上る香りでミュウツーは中身を理解したが、
「……何で牛乳なんだよ、しかも温めた奴」
「ホットミルク、と言いたまえ、カオス。牛乳なんて名前だと雰囲気でないじゃないか」
「何の雰囲気だよ」
「何のって、それはだね…………なんだろう」
意味はない質問に深く考えだした男性から目をそらし、ミュウツーがカップを口へ傾ける。舌に感じる粘り気が心地よく、喉を通る熱が身体全体を温めるような気になる。数口飲んだところで、彼はカップから口を離した。
「やっぱりただ温めただけの牛乳じゃねぇか」
「いいや、ホットミルクだよ。語呂が良いじゃないか」
互いに真面目な顔で言ってから、どちらともなく笑いだす。静かと思われた深夜の部屋に笑い声が重なり、何となしにミュウツー自身の気分が軽くなる。と、それを見透かしたように、男は肩をすくめた。
「それにしても良かったよ」
「あ、何がだよ?」
「カオスが悩み事をしながら夜中に降りてくるなんて珍しいからね。お前の尻尾が左右に忙しなく揺れているときは、大体、何かよくないものでも見たのだろう?」
正直、ぎくりとした。確かに見たと言えば見たのだが、それは夢での話だ。しかし、目の前の男は確かにミュウツーが少し前まで感じていた不安を見透かしたのである。自分の顔が不機嫌になっていくのが分かる。
「シュウの前にお前の主人をやっていたんだ。相方の行動を理解しないで主人が務まらないだろう?」
「お前の相棒は、バンギラスだろ」
「バンギラスはハルナの……元はシュウの母さんの相棒だよ。もちろん、他のポケモン達も私の大切な仲間だがね。ただ――お前は私を"救って"くれた。だから、そう言う意味で、お前のことはなるべく理解しているつもりさ」
元主人で、現主人の父親である男は、目を細めて頬を緩める。二人の間に沈黙が降りる。その間、ミュウツーは不機嫌そうな表情のまま軽く視線を落とし、男性は困った顔で笑っている。
やがて、男がコーヒーカップに手を伸ばし、中身を流し込み終えてから、ミュウツーへと向き直る。
「何かあったら、私やシュウを信用しなさい。まぁ、私はもうお前の主人ではないから、あまり何かを言える立場ではないがな」
「…………」
「シュウは私の息子だし、お前が面倒を見てきたんだ。あいつの性格は、私以上に理解しているだろう?」
首を横に振ることなく、揺れていた尻尾を持ち上げてミュウツーは紫色の瞳を細める。その様子に男性が満足そうにうなずくと、空になった自らのマグカップとコーヒーサイフォンを持って立ち上がった。
「ちょっと片づけてくるよ。もう眠れそうなら、そこにカップを置いて上にあがりなさい。夜遅くまで起きていると、体に悪いからね」
「別に夜遅くまで起きてるのは問題ねぇよ。女抱くのに時間を気にしたことなんてないね」
不謹慎だなぁ、などと笑いながら。男はその場から離れ、流し台のある厨房へ籠もる。
立ち去る男の背が厨房と今を隔てる暖簾の向こうに消えたのを確認してから、カオスはカップの残りをすべて飲み干す。喉を嚥下し、何でもないホットミルクを舌の上で堪能する。空になったカップを置き、一息つくと共に尻尾を自分の前の方に持ってくる。今は全く揺れていない先を指先で暫く弄っていたが、やがて、彼はゆっくりと立ち上がる。
思考することがだいぶ面倒くさくなった頭を少しばかり叩きつつ、彼は厨房へと振り返り、
「寝る」
「ああ、お休みなさい」
控え目な水道の音に混じって男性の気軽な返答が聞こえる。対して大きな声を出したつもりはないが、此方のことを気にしてくれていたのらしく、声は届いたようだ。
意味はないかもしれないが――ミュウツーは小さく笑ってしまった。
(階段を登って、元いた部屋のベッドに寄りかかった頃には、降りるまでに感じていた不安を忘れた。)
>何時書いたか不明もの。ミュウツーのカオスはとにかく過保護ですが、その元主人も彼らに対しては過保護の様に振る舞ってます。ただしその本心は相棒ですら不明。