ぱちりと目を覚ましたエステルは、自分が椅子に座っているのに紐でぐるぐる巻きに体を拘束されている現実に首を傾げた。そもそも自分は、確か宿の女主人と買い物に行っていたはずである。その際に、少し離れたところで小さな男の子が大きな男性と衝突し、怒った男性と子供の怪我を治しつつ、子供の代わりに謝って、次の瞬間いきなり眠くなり――――。

「ここは……?」

それは宿屋の部屋に似た場所だった。部屋にあるのは質素なベッドと机と本棚があり、明かりを取り入れる窓や出入りをするための扉は閉められている。宿屋ならば、窓は上にあげて開くのだが、その部屋の窓は両取っ手式である。窓から差し込む光の量は少なく、空は茜色と紺色が交じっていた。壁板一枚挟んだ廊下からは、何やら男性達の笑い声やら悲鳴やら、とにかく祭りの様な楽しげな声が聞こえる。
もしもお祭りが始まったのだとしたら、自分は丸一日寝ていた計算になる(買い物の最中で「明日はお祭りなんだよ」とおばさんが嬉しそうに言っていたのを覚えている)。折角、"お祭り"というものにユーリや他の仲間達と一緒に行きたいという提案をしようと思っていたのに、寝過ごしてしまったのかと思うと、少しだけ気分が沈む。

それにしても、自分は何故縛られたまま寝ていたのだろうかと、エステルは考える。

もしかして寝相が悪くて一緒に寝ていたリタが自分のことを縛ったのだろうか、と首を傾げるが、そもそもリタが普段持ってる紐(というか帯)は武器に使うはずだからそのままということはないと思い却下。ジュディスの場合、寝相のことはきちんと言うように思うので、これも却下。カロルはまずリタかユーリに言うと思うので違う。レイヴンの顔が思い浮かんだのだが、以前彼に「一緒に寝ないか?」と言われた時、首を振る前にユーリとリタがラピードも驚くほどの速さで突っ込み(と称した蹴りと殴り)を入れてた上で「絶対に駄目だからな」と念押しされてしまったので、その可能性もやはりない。

では、ユーリならどうするだろうか。

首を傾げて考えてみるが、彼の場合はまず口頭の注意から始まる。しかし、今までそういった注意をされた記憶はないので、そう考えると彼ではない。フレンはそもそも一緒にいないので、やはりその可能性もない
では、誰によるものなのか。エステルが悩みに悩みつつ、首をひたすら斜めに傾けていたところで――――扉がゆっくりと開く。
仲間の誰かと思ったエステルは、入口に立っていた痩せこけた男性と数人の男達の姿に、ますます不思議そうな顔をする。彼らは疑問符を浮かべるエステルのことも気にせず、部屋へと入り込んでくる。

「んんー、起きたのか。でもまぁいい、むしろそれの方が好都合だ! ――お前達、運び出してウムラウト様の前に引きずり出せ! あと、あの主人も戻ってきたら絶対に生け捕りにして、ウムラウト様の前にだしてやれ! 少なくとも、あの男は絶対にこの女を取り返しにくるはずだからな!」

品のない笑みを浮かべる男性の命令に従って、男達が同様の笑みを浮かべながらエステルを引っ張り上げて歩かせる。無理やり引き上げられたことで紐が服を通して肌に食い込むが、エステルは強く瞼をつむるだけで咄嗟に声を出さないようにした。そして、やっと自分が囚われている身だということに思い当る。

(えと……逃げた方がいい、です?)

呪文を唱えるだけの力はある。武器はないが、拘束されたままでも自分を連れて行っている男性達を吹き飛ばすだけの技はある。しかし、それをしようと思えなかったのは、先ほどの痩せこけた男性の言葉。

(『あの男』というのは、ユーリ?)

何となく、それには確信じみたようなものがあった。もしもそれが本当ならば、今ここで術を唱えて逃げるのは不味いのかもしれない。だからといって大人しく人質になっているのも問題である。
考え込んでいるうちに、気づけば階段を下りた先、すぐ目の前には扉があった。先程聞こえていた祭りの声が一段と大きくなる。彼女を連れた男の一人がその扉を足で蹴破り――目の前の光景に立ち尽くすエステルは、後ろから背を押されて前のめりに体をつまらせた。
そこは宿屋のレストランと似た構図というだけであり、実際は惨劇もいいところであった。男達は転がっている木の丸テーブルや椅子を破壊することを楽しんでいる者もいれば、酒を飲み散らかして談笑する者、窓ガラスをたたき壊している者などがいる。そして、床に転がっているのは酒場の店員と思しき制服を着た者達ばかりで、全員が息絶え絶えのまま、ほとんど玩ばれているとしか思えないような扱いを受けている。

「――白き天の使い達よ」
「あ?」

傍にいた男が、エステルの呟きに訝しげな表情を見せるが、もはやそれは関係ない。目の前で倒れている者達がいる現状を見過ごすことなど、彼女の考えその物が許すはずがない。屹然と顔をあげたエステルは、凛とした声で術を唱えた。

「その微笑みを我らに――――ナース!」

収束したエアルが解放され、現れ出たのは淡い海の色を放つ存在。突然、術の効果によって現れ出た存在に、その場にいた男達が一斉に逃げ惑う。エアルが具現化したその力は、男達の間をすり抜け、倒れている酒場の店員達の上を飛び跳ねる。同時に、店員達の傷や腫れあがっていた肌の赤みが嘘のように消える。しかし、半数以上はすでに気絶しているのか、起き上がったのは片手で数える程度しかいない。
エステルを引き連れた男達は呆然としており、彼女が歩き出しても、動くことすら出来ていない。先程まで暴れていた男達もまた、何も喋ることが出来ずに呆然としている。

「どうなっているのですか?」

エステルが尋ねる。その声は単純に疑問を帯びたものであり、詰問の色は全くない。しかし、彼女の纏う底知れない力を肌で感じるのか、静まり返るその部屋から答えは返ってこない。
返答は、背後からだった。

「それはな、お前さんの彼氏を誘き寄せるためだよ、お嬢ちゃん」

咄嗟に、エステルは目の前に向かって転がった。両腕が縛られているために上手く受け身を取れずに前転することは出来なかったが、彼女がいたと思しき場所に大柄な男の手があった。

「ガッハッハハハ、この俺様から咄嗟に逃げるとは、良いじゃないかぁ、嬢ちゃん。ますますあの男の前で、目にものみせてやろうじゃねぇか」

にやりと笑う大男の姿に、エステルは怖がることも怯むこともなかった。それよりも、何か見たことあるような気がするというほうに意識が向き、彼女は自分の記憶を引き出す。そして、それが自分が寝てしまう前に確か見た人物だということに思い当ると、

「あ、さっきの方ですよね。怪我、大丈夫です? さっきの子供さんのこと、許してくれました?」

エステルの質問に、流石の巨漢も笑い声が止まる。全員の視線が一斉に、エステルへ向けられる。
一瞬の沈黙の後に、哄笑と嘲笑の渦が巻き起こる。首を傾げる彼女を置き去りにして、男達がただただ笑いだす。怪我を治癒してもらった店員が地面を這いつくばりながらエステルの元まで来ると、彼女を縛っている縄に手を伸ばし、どうにか外そうと試みる。

「早く逃げるんだ、君……俺達はいいから、早く……!」
「おいこらぁ、誰の許可を得て逃がそうとしてやがるんだ、お前は?」

その声と共に、小規模で巻き起こった爆発が店員を巨漢の前まで吹き飛ばし、エステルがその場によろける。大男の後ろからやってきた痩せた男が、にたにたとした笑みで、足もとの男の頭を踏みつける。

「そいつは、このウムラウト様の貢物で、あの男を誘き」
「邪悪なる魂魄 光の禊にて滅さん――グランシャリオ!」

店員ではなく、二人の男を的確に狙った光の術が瞬時に発動し、閃光がその場を支配し、爆撃音。再び吹き飛ばされた店員に謝りの言葉を述べると、エステルはその場にしゃがみこみ、再び治癒術を唱えようとし――――口を開くことすらままならない脱力感に内心だけで酷く驚く。視界が上から下に、立っていることが出来ないまま、彼女はその場に座り込んでしまう。意識に霧が霞み、瞼が重くなる。聞こえている嗤い声が耳の中で跳ね返り、はっきりとした言語に聞こえない。
やっと湧き上がってきた恐怖が、足もとを冷やす。穏やかな眠りと、焦燥感と、自分が何をしようとしているのか理解が追い付かない。
ふと、ぼんやりとした視線を、部屋にあるもう一つの扉へ向けた。すると、扉が勢いよく開かれ、普段の恰好ではない見慣れた顔が見えた。

「エステル!」

聞きなれた彼の声がはっきりと聞こえた瞬間、浮かび上がってきた恐怖はあっさりと消え、そのまま彼女は瞼を下ろした。



扉を開いた瞬間、周辺にいた男達が待ち構えていたと言わんばかりの笑みをそれぞれ浮かべる。

「おっと、主賓が到着」
「蒼破刃!」

ほとんど反射ともいえる速度でユーリが移動しながら技を放つ。抜き身の刀身から放たれた斬撃が、喋り出そうとしたウムラウトの足元で跳ね、男の体を勢いよく後方へ吹き飛ばす。
走る速度を落とすことなく酒場の中へと突入。周囲の男達が駆け寄ってくる前に、崩れおちるように座っているエステルの元まで走り寄ろうとし――微かに聞こえた詠唱の声と勘で瞬間的に後退。
しかし。

「それで勝ったつもりか、坊主?」

囁きにも似た声に振りかえった瞬間、足元に何かの布陣を見たかと思うと、脱力感にも似た眩暈に意識が奪われる。次の瞬間、手に持っていた剣が叩き落とされ、背中から激しい衝撃。首領とか名乗っていた男――ウムラウトによって地面に叩きつけられたと気付いた時には、背中を、そして、剣を握っていた左手を強く踏みつけられていた。
激痛が体を走り廻るが歯ぎしりで無理やり抑え込む。しかし、体から気力が奪われ、脳が睡眠を欲求する感覚だけは徐々に体を蝕んでいく。
睨みあげた視線の先に、痩せこけた男の禍々しい笑みがそこにあった。

「へっへー、昨日は使えなかったが、今日はお前さん単体だけだからなぁ。範囲固定が出来てやりやすいぜ、全く」

ユーリが動けないのを良いことに、男が顔を近づける。酒と煙草の匂いが混ざりあい、毒々しい異臭が突き刺さるような痛みとは別の不快感をもたらす。

「伊達にも"狂犬の牙"というギルドを名乗ってるんだぜぇ? まさか、実力がないわけじゃねーんだよ」

そう言うと、側近らしきその男は、妬みを含んだ手をユーリの方へ伸ばそうとして――ふと、その手が眼前で止まる。男の視線は、背後の、店員と共に倒れ込んでいる少女へ向かう。
背筋に寒気を覚えた次の瞬間には、男はエステルの細い手を掴みあげていた。

「まずは手始めに、俺達の誇りへの代償といこうか。目の前で抵抗できない女が、淫らに啼く姿は見たことあるかい?」

周辺にいる男達の歓喜の声が酒場の中を支配する。
目の前に見える光景と下卑を含んだ揶揄の声が飛び交う音に、ここ最近感じていたわだかまりが膨れ上がる。
悲鳴を上げていたはずの全身に力がこもり、湧きあがる感情が全身を包む。
エステルが起きる様子はない。目をつむり、されるがままに腕を持ち上げられている。
暴れれば暴れるほど、上に乗っていたウムラウトが背中と足を踏みつけ、さらには片腕が曲がるはずもない方向で締め上げられる。
痩せこけた男の唇がこれ以上ないほどに吊りあがり、続くように歓声が巻き起こる。
そして、悪意が籠った手が、彼女の服へと伸び、


「災害警報 お住まいの地域は荒れ模様――テンペスト」

刹那、酒場の中で凄まじい勢いで突風が巻き起こる。それらは部屋の中にいた下っ端と思しき男達の大半をなぎ倒し、痩せこけた男と大男の二人も巻き込んで吹き飛ばす。
どうにか突風を受けて起き上がった、或いは間一髪で難を逃れた者達は、しかし次の瞬間、飛んできた弓矢の先端を体に受け、次々とその場に倒れていく。その傷は決して命に別条はない、しかし動くことを確実に困難とさせる的確な攻撃は、どうにか起き上がった首領と側近の二人以外の全てを、一瞬にして全滅に追い込んだ。

「だ、誰だっ!」
「誰だも何も、おいおい、主賓っつーのはこの俺様のことだろう?」

痩せこけた男の金切り声につられ、意地でもって顔をあげたユーリの視線――開きっぱなしの扉の入口には、扉口に足を掛けて肩をすくめる、中年男性の姿があった。


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