気づけば、自分のよく知る青年が傷を負って倒れていた。
焦燥感ばかりが募る心に急かされ、普段と変わらない動作で体が治癒術を使う。
そして――――彼がその場で胸を押さえて苦しみ始める。呻く声が怨嗟の様な攻め立てる声に聞こえ、ただ呆然と、彼の体を抱き抱えつつ、必死に名前を呼ぶ。
それが彼の名前なのか、或いは普段いる仲間達の名前なのか、泣き叫ぶままに声をあげてはいても、発している声が音として認識すら出来ずに流れゆく。
やがて、腕の中に抱きかかえていた彼の息が聞こえなくなる。
頬から零れていた雫が、熱を失う。

暗闇の中、ただ、絶望だけが心地よいほど冷やかに体を包んだ。



起きあがった時に頬を伝っていたのは汗だと思ったのは、ほとんど直観に近かった。ゆっくりと伸ばした手が頬にふれ、目じりへ向かうが、少なくとも泣き痕の様な触り心地はしない。
自分を安心させるように一度だけ瞼をおろし、少しの間を空けて開くと、エステルは体を起きあがらせる。同じ部屋で寝ていた二人の女性が今なお眠っているのを確認すると、途端に吐息が漏れる。それが押し貯めていた息が零れたのだということに思い至り、彼女は寂しそうに目を細める。
そして、静かにベッドの上から両足を下ろすと、床板を軋ませないように注意を払いながら部屋を出ていった。


「どこ行くんだ?」

予期していなかった声に肩を震わせて振り返ると、ユーリが呆れた表情で壁際に立っていた。ほんの一瞬だけためらった声が漏れるも、残った気力でもって、エステルは苦笑を浮かべる。

「えと、ちょっと外の散歩に」
「こんな夜更けにか?」

首を緩く振って肩を竦める。見つめる黒い瞳が全てを見透かしているような気がして、エステルは思わず体を震わせる。その様子に、ユーリが罰の悪そうな表情で頭を掻く。
そして、傍まで歩み寄ってくると、目の前の扉のドアノブを捻り、押しあける。黒から紺色へと天井が代わり、宿の中にはなかった涼しい外の香りが鼻先をかすめる。

「気分転換だろ。オレも少し外に用事があるからな。一緒に行くか?」

ユーリからそんな提案をされるとは思ってもいなかったために、数度の瞬き。目の前の彼が思わずため息を漏らしたタイミングで、ほぼ反射的に肯定の返答を返すと、彼は振り返ることなく歩き出す。開け放たれた扉を潜って、エステルはユーリの後を追う。
そうして暫く歩いた後、ふと、エステルが尋ねる。

「それで、ユーリの用事は何です?」
「ん、そうだな……なんだと思う?」

疑問に疑問を返されて、エステルは歩きながらも頭を悩ませる。暫くして、彼女はぽつりと呟く。

「えっと、鍛練とか」
「ま、それもあるが、半分はお前と同じ散歩だな」

肩をすくめて空を見上げるユーリに倣い、彼女もまた、空を見上げた。
完全な黒ではない暗い空には、幾つもの点が浮かんでいる。一つ一つは紙の上にこぼした砂粒程度にしか見えないが、そのどれもが、意味をなすかのように夜空に瞬いている。緩めた唇の様な形をした月と、そして、彼らのギルドの名前となっている星が、雲の無い天井で一段と輝いている。
場所が海辺の町であるために、夜の風には涼しさの中に潮の香りが乗っていた。軽い深呼吸をすると、夜気が肺を満たす。
無言で、二人は歩いていた。間に言葉はない。しかし、どちらが伴く言葉を発する様子は見受けられなかった。夜にしか見られない景色――例えば空から降り注ぐ以外に明かりらしい明かりのない町並みや、その灯りを淡く跳ね返す波の色など――に目を奪われたエステルはというと、ユーリと共に歩きながら、様々な場所へ目移りさせている。時折、無意識に立ち止まっているが、呼吸を合わせるようにユーリは自然と立ち止まり、彼女が歩きだすと、また何事もなく歩き出す。
そうして街をぐるりと一周して戻ってくると、宿屋の前で、ユーリが伸びと共に両腕を上げる。

「さて、もう寝るか。エステルも散歩はこれで満足だろ。そろそろ部屋に戻らないと、リタ辺りが心配するぜ?」
「あ、はい。それじゃ――おやすみなさい、ユーリ」
「ああ」

一度深く頭を下げてから、エステルは宿屋の扉を先にくぐり、振り返すことなく部屋へ向かった。
ベッドで横になり、まどろみに囚われる頃には、夢で見た内容も、焦燥感も、絶望感も、それら全てが、いつの間にかするりと頭の中から抜けていた。


蒼白な表情で宿の外で出ようとした彼女が、戻る時にはいつもの様子に戻っていた。

宿へ戻ろうとした彼女の背へ反射的に伸ばした手が宙を切ったことに、ユーリは安堵した。何故、伸ばそうとしたのかは自分でも分からないが、触れなかったことに安堵した理由だけならばよく分かる。
はっきりと覚えている人を殺した感触に、唇が空に浮かぶ月の様に歪む。
後悔はしていない。そして、その事実を否定するつもりも全くない。
ただ。
その手で彼女に触れることだけは、躊躇した。
何もない手のひらを見つめ、握りこぶしを作り、再び開く。
有るはずのない"赤(あか)"が、手のひらを伝い、固い地面へと零れ行くのが見えた気がした。

「そろそろ疲れでも溜まってるのかもな」

軽く頭を掻き、あくびをかみ殺して。
彼もまた、宿の扉の取っ手に手をかけた。
先程、彼女と共に歩いただけだというのに、寝起きの嫌な感覚は薄れていた。


無音の生み出す安念


(それでも、彼と、彼女と、無言でいたその瞬間に、どれだけ助けられたかなんて、分からないでもないけれど。)

080912/拍手リクにあった「エステルの特殊な力に関するシリアス」です。ご期待に添えてなかったら申し訳ない;;
とりあえずイメージとしてはバウル入手後辺り。一応砂漠で云々やったけど、それでも多少はやってみたかった。まさか本編でやられるとは思ってなかったんだよなー(苦笑)