「これはあれか……俺の日ごろの訓練不足なのか」

 頬やら腹部やらの痛みにうめきつつ、オーディンはフレイヤと共に城の廊下を歩いていた。もっとも、フレイヤはオーディンの父から借りたカビゴンに抱きかかえられる形ではあるが。
 先ほど、ゼロの部屋に立ち寄ってきたオーディン達だったが、とりあえず彼は、部屋に入る瞬間にまずヴィエルから、腹部へのパンチを食らい――これがどういう訳かみぞおちに入って死にかけた――更には、ボールから出てきた彼女のカイリューによって思いっきりはたかれ、近くの廊下の壁に叩きつけられるという事態に陥ったのだ。
 慌てて庇いたてするフレイヤの取り成しで、一人と一匹はやっと溜飲を下げるのだった。
 そして先ほどまでフレイヤはヴィエルの見立てで服選びをしていた。当然その間、オーディンは外に叩きだされ(そのすぐ横に不機嫌なカイリューとそれを宥めるカビゴンがいるのはいかがなものかと内心で思ったが)廊下に突っ立っていたのだが。
 部屋の外に出てきたフレイヤは、良い飾らなかったとしても、随分と似合った格好であった。流石に姉というべきか、妹の綺麗さを引き立てるコーディネートだ。

「あのヴィエルだからこその服のセンス、って言っていいのか……?」
「お姉様は、ちょうど一年ほど前から、ファッションチェックが趣味になっているそうなんです」

 ちなみに、両足に巻いた包帯については、ハピナスが巻きすぎたということで何とか誤魔化した(もっとも、疑っているような目はむけられたが)。
 未だに痛みを訴える箇所をさすりつつ、オーディンはフレイヤを抱きかかえるカビゴン――オーディンの手持ちではない、父親の手持ちだ――をちらりと見上げた。

「ウィル、あんまりドタバタ歩くなよ」
「ガウッ」
「あ、大丈夫ですよ、オーディン様。ウィルちゃん、抱きかかえるのが上手なんですね」

 そう言って、フレイヤはくすりと笑う。
 昨日よりは幾分か笑い顔を見せるフレイヤは、城内の様子を見るたびに、普段見たことのないものだからか、目を輝かせているようだった。それでも時折、心配そうな表情をする彼女の顔は、どこか遠くを見ているようだが。
 ヴィエルが念を入れて選んだという明るい貴族服を軽く握り、彼女が安堵するように息を吐き出す姿を、オーディンは先ほどから何度か盗み見している。

「なぁ、どこに行きたい? 王都内なら、そんなに手間かからず移動できるからな。アンタの行きつけの店でもいいぜ」
「え? と、特には……それに」

 困ったように顔を伏せるフレイヤに、オーディンとカビゴンのウィルが顔を見合わせる。やがて彼女は、ぽつりと自身なさげに呟いた。

「私、王都の内のお店……全く、知らないんです……。お店って、その、回ったことないので……」

 ごめんなさい、と言いかけた彼女の頭を、オーディンは軽く叩く。それによって言おうとしたことを飲み込んだフレイヤより少しだけ前を行きながら、オーディンは言った。

「それなら、今日はロンドシティの街をめぐるか。俺は小さい頃からこの街に住んでるから、大抵の店はよく知ってる。ってことで、まずは昼の腹ごしらえからするぞ」
「ガウウッ」

 少しだけ歩く速度を上げるオーディンに置いていかれないように、しかし、フレイヤにあまり迷惑をかけない程度に、同意の声をあげたカビゴンが歩く速度を少しだけ上げる。
 先を行く彼の表情は見えないが、自信にあふれた彼の背が頼もしく見える。――――同時に、これは神様が与えれくれた、せめてもの"お情け"なのだろう。

(次にお屋敷に戻ったら、私はもう、誰にも会うことは出来ない。だからこれはきっと、神様が気まぐれに与えてくれた、最後の"夢"なのね)

 うすらぼんやりとそんなことを思ってほほ笑むと、ふと、彼女を抱きかかえていたカビゴンが、彼女の体を抱きかかえ直し、自分の体におしこめるようにする。まるで抱擁しているような――――彼女を慰めてくれるようなカビゴンに、フレイヤは寂しそうな笑みで、頬をすり寄せた。
 その様子を、カビゴンはどこか悲しそうな目で、見下ろしていた。


* * *


 その日、フレイヤはオーディンに連れられて、首都ロンドシティを堪能した。貴族としての生活が長い彼女にとって、お店の中を見て回る経験はあまりないのだという。なので、オーディンはなるべくヴィエルによく連れまわされている場所を彼女と共に巡った。
 昼食を食べ終えて、様々な洋服店やアクセサリー店、それにシティで最も有名な闘技場を見回り、そして二人と一匹は、街の中の大きな噴水広場で、ベンチに腰掛けながら3時の間食にジェラートを口にしていた。

「はい、ウィルちゃん」
「ガーウッ!」
「あら、全部食べちゃったわ。美味しかったかしら?」
「ガウッガーウッ!」
「…………」

 にこにこと機嫌よさそうなフレイヤが、残りのジェラートをコーンごと一口で全て食べてしまったカビゴンのウィルに笑いかける。それを、オーディンが少しだけ半眼で見つめていた。ふと、その視線に気づいたフレイヤが彼のほうへ向きなおり、首をかしげる。

「どうかされましたか、オーディン様?」
「…………いや、なんでもない」

 自分のジェラートにぐさぐさとスプーンを差しつつ(しかし何故か口はつけていない)オーディンはそっぽを向く。少しばかり不満そうな声に、フレイヤがおろおろと困った表情でベンチではなく地べたに腰掛けるカビゴンを見上げる。
 カビゴンのウィルは、主人の息子のすね具合に笑うと、片指を軽く口元に当ててじっとジェラードを見て、それから、フレイヤの肩を軽く叩いて、オーディンを指差す。

「あ、分かりました」

 内緒話をするようにカビゴンにひっそり言うと、フレイヤはこちらから視線を外すオーディンに声をかける。

「オーディン様」
「なんだよ」
「あの……ジェラートを一口頂けますか?」
「え」

 ほんのわずか、何かを期待したかのようなオーディンが振り向くと、フレイヤは自分の後ろを指さした。

「ウィルちゃんが食べたいそうです」
「……………………」

 ちなみに指をさされているウィルは、必死にぶんぶんと首を振って、ベンチに腰掛けるフレイヤを身振り手振りしながら指さす。その様子に気づかないフレイヤが首をかしげるのを、オーディンは深いため息で答える。

「アンタはいるか? 味が違うだろ」
「え、それは嬉しいのですが……あの……」
「何だよ」
「…………行儀の悪い女性と、思われるのではないかと……」

 ぼそっと目を伏せて呟くフレイヤの様子にオーディンはもう一度ため息をつくと、少しだけ彼女のほうへ身を乗り出す。顔がそれなりに近くなって驚く彼女の口に、一口掬ったジェラードをぐいっと押し込む。

「別にここで貴族然とする必要性ないだろ」

 むすっとした顔で離れていくオーディンを見つめながら、フレイヤはもぐもぐとジェラートを咀嚼する。舌の上で先ほど自分が食べたものとは別の味が広がり、思わず口元が緩む。もう一度彼を見れば、何か納得のいく表情で口をつけていなかったジェラートを掬って口に含んでいた。

「ん……思ったより美味いな。杏仁味とかいうからどんなものかと思ったけど」
「そうですね」

 それっきり、互いに何を喋るでもなく、ベンチに座って噴水周りを見つめる。
 本日のロンドシティは、いつも通り穏やかな時間が流れていた。休日というのもあってか、ポケモンを出してバトルをしている者達もいれば、ポケモン達と共に訓練をしている者、何をするでもなく戯れている者や、のんびりと本を読んでいる者など様々だ。

「なぁ」

 声をかけたのはオーディンが、振り向くと、彼は鳶色の瞳を細める。

「駄目か?」

 何を、というのは、言わなくても何となくわかった。傷をつけた人物を尋ねているのだ。
 フレイヤは首を左右に振る。

「オーディン様に、迷惑をかけるわけにはいきませんから」
「何か脅されてるのか?」

 すると、フレイヤは寂しそうに笑った。寄ってくるものを出来るだけ拒絶するように。

「いいえ。私はただ、一人の女性として、ジェライ様を愛していますわ」
「…………それだけされても、か」
「ええ。私にはこれくらいしか、出来ることがありませんから」

 苦々しい表情の彼には痛烈な皮肉に見えたかもしれない。しかし、それが本心であると。
 時期外れの突風が吹きすさび、軽やかに噴水の上を駆け抜けていく。フレイヤの金色の髪がはためき、前髪が彼女の目元を覆うように揺らめく。そっと目元を伏せがちになった瞬間、彼は口を開いた。

「信用ならない、か?」
「え」
「俺のこと。まぁ、たった一日あったばかりで、よくもまぁ一緒にいることを承知してくれたとは思うけどよ」

 軽く目を点にして、フレイヤは目をしばたき――――それから、小さく声を漏らして笑った。

「なっ、なんだよ」
「いえ、その……オーディン様は思った以上に、自分に自信を持たれる方だなーと思いまして、ふふふっ」
「……悪かった」

 未だに笑いをひっこめないフレイヤから目をそらすように、オーディンが背を向ける。
 それを見つめて、フレイヤは小さく息を吐いてから――――彼の背中にぴっとりとくっつき、頭を背中に軽くぶつける。
 突然のことに振り返ろうとして、しかし、それを脳裏が何となく拒否をする。案の定、彼女は振り返らないようにと、その背中に強くしがみついてきた。そして、彼にだけ聞こえる程度の声音を絞り出す。

「本日、こうして案内をして下さったお礼に、私からも一つだけ、お教えします。――私、オーディン様のことは、今回よりも前から知っておりました」

 ほんの一瞬の間。小さく息を吐き出して、ぼそりと呟くように尋ねる。

「俺、アンタと会ったことあるか?」
「いいえ。――ヴィエルクレツィアお姉様の手紙で、何度も拝読しているんです。今日の朝、思い出しました」

 瞬間、オーディンはフレイヤが見えないこともあってか、はっきりと嫌な顔をする。
 ヴィエルがフレイヤに手紙を送っていた、という話は聞いていたが、しかしそれに自分のことが書かれていたとなると、何となく想像のつかない罵倒の数々がつづられているのではないかと感じる。

(そういや、よく考えなくても、フレイヤはあのヴィエルの妹なんだよな……)

 最初、ヴィエルの妹が来る、という話を聞いたときは、正直に嫌な予感しかしなかった。この一年間、彼女によって振り回された数々の事件が脳裏をかすめて、関わることを最初から拒絶したい勢いであった。
 しかし実際に顔を合わせて――とはいえ、あの場合はもはやドタバタしていたがために、彼女の性格がどのようなものか捉える暇などなかったが――こうして時間を共にしていると、この女性は、ヴィエルとは全く正反対のように思えた。
 大人しく、おしとやかで、他人を巻き込まないように自分で全て抱え込む。何もかもが、鏡に映したかのように正反対だった。まるで、計算されたかのような正反対具合は、今こうして寄り添ってくる彼女を前にして、更に感じる――――"違和感"のようなものだった。
 背中の服を掴む手に、力がこもる。

「お姉様は――――貴方は、とてもおせっかいな人だって、言ってました」
「おせっかいなのはアイツだぞ? 言っておくけどな、普段は向こうのほうが勝手に――」
「勝手気ままに絡んでも、嫌な顔をしながら相手にしてくれると。王子様が忙しいときに、いつも暇そうに付き合ってくれると、嬉しそうに報告されていますよ」

 オーディンは続けようとした言葉を飲み込んで閉口した。アイツは一体、どんなことを手紙に書いてあるのだろうか。それはある意味とても気になった。が、彼女はそれ以上、特に何も言うつもりはないのか、そのまま黙り込んでしまった。
 仕方なく、オーディンはため息をついて肩をすくめる。

「……――それで、実物に会ってみてどう思った? 幻滅でもしたか?」

 首を横に振る感覚が、背中越しに伝わる。

「いいえ。それどころか、思った以上に――――お人よしでおせっかいで傍若無人……というよりもガサツな人だな、って思いました」

 前言撤回。
 彼女はヴィエルの妹だ。笑いながら歯に衣を着せない物言いに、オーディンは感じていた違和感を忘れて肩をすくめた。

「……随分と好き放題言うな。ヴィエルみたいだ」
「ふふふっ。私はヴィエルクレツィアの妹ですから。――血は、半分しか繋がっていませんけどね」

 ふと、自分の服を掴む彼女の手が、小刻みに揺れているのに気付いた。背中に何となく何かが当たり、強く押し付けてくるような感覚。促すことなく口を閉じると、彼女の呟きだけが、小さく、しかししっかりと耳に届く。

「母が違うんです。お姉様のお母様とは政略結婚で、私の母とは本当に愛したからこその結婚だったそうです。でも、父は誰からも愛されていないんですよ。父が本当に愛したはずの私の母でさえ、あの人に優しくないんです。――――もしかしたら母には、別に好きな人がいたんじゃないか、って、今では思えるんですけどね」

 その声に震えはなく、ただ淡々と事実を述べているだけの様に感じた。まるでテレビの向こう側の争いを眺めているだけの、自分の身近に起こったことだというのに、まるで実感のない言葉。

「父は決して優しい人でも、厳しい人でもなかった。傍観者を決め込んだあの人は、でも、代々受け継いだ名誉だけは守ろうと必死だったんです。私はそれを、母が捨てたあの人の行いを、間近で見て育ちました。だから、父の判断を無駄にしたくはないんです。例え――――数日後の結婚が、政略的だったとしても」
「…………父親のため、か?」
「ありていに言えば」

 オーディンは黙した。かける言葉が思い浮かばなかったのもそうだが、背後の彼女が、まだ何か言うような、そんな気がしたのだ。予感は相変わらず的中した(ただし悪い意味でしか的中しないが)。

「――――先ほどの発言、少しだけ訂正させて頂くならば、私は確かに妹ですが、お姉様とはほとんど似ていませんよ。私は……あのような高貴な心は持っていません」
「……どこら辺が高貴だ?」
「お姉様はよく、自分よりも他人の為に行動することがありませんか?」

 言われてみて。
 オーディンはヴィエルに振り回された日々を思い出してみる。確かに、そのどれもが(最終的には)誰かの為になっていることが多かった。騎士団員、メイド達、町に住む人々や、場合によっては他の貴族達。連れまわされる度に嫌な顔はした。しかしそれでも付き合っていたのは、彼女の行いが"誰かの為に"繋がっていたからだ。だから、文句を言いながらも付き合った。もちろん、自分以外の人間に迷惑がかかっては、と思ったことも事実だが。
 オーディンがフレイヤの言葉に思い当たる節があったために黙ってしまったのを、彼女は肯定と受け取ったようだった。

「ですが、私は、自分の知らない他人の為に生きていける気がしません。だから、自分の知る誰かを守るためだけに生きているのです」
「そ……そんなの当たり前だろう。普通、誰だって――――」
「オーディン様は、少なくともそうではないでしょう? 騎士団員として"顔の見えない民"を救うことを理念とされている。自分の知らない誰かの為に、貴方は動くことが出来る、おせっかいな、とても心の優しい方です」

 今度こそ本当に言葉をなくしたオーディンは、思わず振り返った。
 明確な拒絶とでも言うのか。
 しかしそれにしては、今にも泣きそうな顔のフレイヤは嗤っていた。そうすることで、彼女自身を取り繕うかのように。
 そして、彼女は最後の言葉を叩きつけた。

「――――貴方に、自分だけのためにしか動けない私を理解することは出来ないと思います。だから、私は貴方にお話しすることが出来ないんです。理解できない話をぶつける勇気なんて、私にはありませんから」
「…………」

 顔を伏せて黙り込んだオーディンの背中からゆっくりと離れて、フレイヤは小さく息を吐き出す。傍で見守っていたカビゴンは分かり易いほどに狼狽えて、両手を上げつつおろおろと二人を交互に見る。
 もうそのまま長い間、沈黙だけが場を支配するのではないか。その場にいる彼女がそう思った。瞬間だった。

「……――げろー!! 来るぞー!!!」

 両腕を大きくふるって何事かを叫ぶ青年が、露店の立ち並ぶ道の向こうからやってくるのが伺えた。と、その青年の声を皮切りにして、道の奥から、悲鳴と怒号、それに腹の底に響くような揺れと地鳴りの音。オーディンは訝しげな表情でベンチから立ち上がり、道の向こうへ目を向けた。
 そこに、土煙を上げて公園めがけて走りこんできている十数匹の四足歩行の獣、ケンタロスの群れがあった。群れの先頭にいるリーダーと思しきケンタロスの上には、かろうじてぶら下がっている男の姿が見えた。ただし意識がないのか、今にも落ちてしまいそうなほど頼りない。

「ったく、こんな時に厄介ごとかよ!」

 悪態をつきつつも、その異常事態を止めに行こうとオーディンがカビゴンを振り返り――――とても苦々しい表情でベンチに座りなおす。普段であれば、困っている人がいれば直ぐにでも駆けつける主人には考えられない行動に、カビゴンが目を丸くする。しかし、直ぐ下に自分よりも何倍も体の小さな女性が見えた瞬間、納得した表情でため息をつく。
 すると、フレイヤがそっと白い手を伸ばして、彼の頬を包み――ぎゅーっと左右に引っ張る。突然のことに慌てて身を離すと、彼女はくすくすと笑いながら肩をすくめる。

「オーディン様、私のことはどうぞお気になさらず。ちょっとの間の留守番なんて、問題ありませんもの。それとも、先ほど私が言ったことが気になるのですか?」
「……それは…………」
「そう、残念ですわ。私――――"自分の知らない誰かの為に動くことが出来るおせっかいな"貴方が好きなのに」

 真正面からそんなことを真顔で言うフレイヤを、オーディンは思わず二度見した。同時に、彼の顔が一気に赤くなる。

「……っはぁ!? だ、だってお前、あんだけ悪態ついて――――!!」
「私は確かに、"貴方に理解されないと思うから"、言わないんです。でも、"理解しないこと"と"好きである"要因は別ですよ。――ほら、急がないと、私、オーディン様のことをもっと信用できなくなりますわ」

 慌てるオーディンの肩を、さぁさぁ、と笑みを浮かべて急かすフレイヤは、とても面白がっているようだった。
 あまりにも唐突な発言は、普段から女性慣れしていないオーディンにとって、それなりの衝撃があったらしい。他に返す言葉が思いつかず、彼は顔を赤らめたまま、口をコイキングのようにパクパクとさせている。
 そんな主の息子を見かねてか、ため息をついたカビゴンは勢い良く立ち上がる。そして、問答無用で彼の襟首を軽々と片手掴みして、騒ぎのする現場へ走り出した。自分を子ども扱いするカビゴンに引っ掴まれながら文句を言うオーディンの背を、フレイヤはしばらく笑いながら見つめる。
 やがて、その二つの背中がケンタロスの群れの中へと消えたところで、彼女は深く息を吐き出した。

(いつも通りの、演技…………そのつもりのはずよ、フレイヤ)

 激しい音を立てる心臓を鎮めるように両手を宛がい、彼女は緩く首を振った。
 言いすぎてしまった彼を励ますために、フレイヤはわざとあんなことを言った。おかげで、昔使っていたお嬢様のような言葉づかいになってしまったが。普段からやっているはずの"演技"は、しかし、言い終わってから何となく気恥ずかしくなってしまった。
 とはいえ――――演技とはいえ、少しだけ私情も入っていたかもしれない。手紙の中の"青年"が好きだったのは事実だ。自分は、それを当人に述べたに過ぎない。だから緊張しているのだと自分に言い聞かせ、妄想を振り払うように、彼女は首を振った。

(でも、あの人がおせっかいであって欲しいのは、本心)

 オーディンが最初、騒ぎに駆け寄れなかったのは、フレイヤを放置できないこと以上に、その前の発言が引っかかっているのだろうと彼女は思った。

 本当に姉が書いた手紙の中にあった"青年"は、顔の知らない誰であっても、困っていれば放っておけない。おせっかいというべきか、世話好きというべきか。

 そんな"優しすぎる"人を、フレイヤが巻き込みたくないと思ったのは本当だ。多分彼は、自分の今の状況を話せば、何が何でも関わって来ようとするだろう。――――例え、自分自身がどんなに傷ついたとしても、フレイヤを助け出すために。それは当然、彼女の姉に言っても同じのはずだ。

(優しすぎる人たち。私は、そんな風にはなれないもの)

 知らない誰かの為に自分を投げ打てる覚悟を持つ彼らは、物語の英雄譚に出てくる高貴な人達の精神だ。物語の世界の中ですら存在できない自分の様な存在が、どうして、そんな彼らの真似を出来ようか。

(ただ、夢でいいから、もっとココにいたい)

 自分を必要としてくれる場所が、決して、牢獄の中ではないということを教えてくれる。たった一日だけの出来事が、この数か月で押し殺していた感情を湧き上がらせる。夢のようなその世界は、今の彼女にとって、甘美な響きを持つ空間だ。
 何となく、思考のどこかで、このままいられるような気がした。彼から離れて一日経つが、いつものような"お言葉"が全く来ないのだ。彼女をあの館に閉じ込める"魔法の言葉"は、今もまだ、耳元には聞こえてこない。
 あるのは、獣たちの怒声と住民達の野次馬の声、そんな喧騒とは無関係な噴水の音に木々が揺れる風の音。これ以上ないほどの『平穏』の中に、フレイヤはいた。
 ふと、先ほど彼らが見えなくなった場所を見れば、上空から落下してきた第三者が、オーディンへ突進をしようとしていたケンタロスをその場に転ばせる。嬉々とした表情になるオーディンとカビゴンのウィル。残りの暴れるケンタロス達を小刻みよく倒していくその姿は、なんとなく、安心と心配を覚える。
 それが、希望に見えてくる。

(もしかしたら)

 もしかしたら、奇跡というのは、あるのかもしれない。
 もしかしたら、自分は救われるかもしれない。
 もしかしたら――――それは最初の頃、自分を奮い立たせるためだけに言い聞かせたフレーズだ。
 もう二度と、そんなことを思えないと思っていた。なのに、今は希望の様な感覚を覚える。ほんのわずか、フレイヤは笑みを浮かべて、

『あぁ、よかった、フレイヤ。君がもし真実を言ってしまったら、僕はいまここで、君の姉で"計画"を実行しようと考えていたよ』

 聞きなれた声が頭上から降ってきた。そこに、無線機を持った老執事が静かに立っていた。
 表情が一気に凍りついた。かみ合わない奥歯が、体と共に震える。
 そんな彼女を――――どこから見ているかは分からないが、無線機の向こう側にいる男が嗤う。

『そんなに悲しい顔をしないでくれ、フレイヤ。君のことは、この私が"一番"理解している。君は、姉が、父親が――――そして、私のことが大好きなんだろう。寂しい思いをさせてすまなかった。だが、それももうすぐだ。数日中に、全てが終わる』

 無線機の向こうの声を、フレイヤは一日の間、聞いていなかった。前であれば、数時間聞いてない時があれば、狂ってしまいそうだった。
 それなのに、何故、自分は彼を"忘れていた"のだろう。背中の中に大きな氷塊を落としても感じることのないだろう怖気が走る。

『君が私の元を離れてしまったことは許そう。あれは、君が悪いのではない。ただ――――先ほど彼に向けて言った言葉。あれは、夫である私としては、あまり好ましい物ではないんだがね?』

 騎士団長の息子に『好き』であると好意を匂わせた言葉。
 びくっと体を大きく震わせて、フレイヤは頭を下げて謝ろうとした。しかし、それを遮るようにして、老紳士が静止の手を伸ばしてくる。

『そう、私は機械越しに謝られても、あまり許せないたちでね。だから君には、"誠意ある行動"をして、本当に自分が悪かったということを、私に示して欲しいんだ』
「誠、意……?」

 声は震えていた。もしかしたら泣いていたのかもしれない。そんなのも分からず、フレイヤは呆然と、自分の"主"の声がする機械を見つめる。
 そして――――主であり夫である男、ジェライは、酷く楽しげな声で、こう言った。

『明日の夜、あの騎士団長の息子を殺してくるんだ。今から渡すものを使って、彼を殺して来れば――――私は君を赦そうじゃないか。そして、君が最も欲しがる、永遠の自由を与えよう』

 希望に見えた世界は、一瞬にして、彼女を地のどん底にまで叩き落とした。



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