平凡な恋が出来たらどれだけいいだろうと、彼女は嘆いた。



「トール」

猫撫で声とも言うべき甘えた声で呟くルアナに、トールが軽く首を傾げる。白い海の上で一糸纏わぬ姿で抱きしめられたまま、女性は彼の胸元に顔を埋め、巫女ではなく、女性としての口付けを施す。

「どうした?」
「ちょっとだけ……強く抱きしめて」

その言葉に、トールが面を喰らったような、驚いた表情をする。それでも、強請るように見上げてくる彼女の視線を反対する理由はないので、首後ろに回していた両腕を、そっと彼女の腰元まで下し、抱きしめる。
彼女の温もりを忘れぬようにと、互いの身分を忘れ、強く、離さないように、抱擁する。
ルアナの僅かな吐息に、トールがそっと首を傾げ、彼女の頬に口付け。目を細めてから、心配そうに尋ねる。

「何かあったか?」

その言葉に、ルアナがトールの腕の中で僅かに身じろぎ。きつかったかと思いトールが腕の力を緩めると、それに追いすがるようにして、ほっそりとした女性の、しかし助けを求める懸命な、弾き返さないだけの強いひっぱりが――彼女が、彼の腕を掴む。

「こうしているとね、思うの。どうして私は"巫女"なんだろうな、って。何で人目を気にして、いつも怯えながら、それでいてのびのび出来ないの、って」

そっと。
ルアナが言葉と共に顔を上げたのを、トールは彼女を抱きしめていたことで理解する。その、視線の先にある物も。ゆっくりと吐き出された、溜息と、安堵と、もう一つ別の意味をもつ、呼吸。熱と色香を保つ彼女が、巫女の面を外して呟く。

「そうじゃない? 私以外にも、村には沢山の女の子がいる。それこそ、私以上に大人しいとか、言う事を聞くとか、綺麗とか、それっぽいとか」
「でも、俺には会えなかったかもしれない。そうじゃないか?」

トールの言葉に、ルアナが首を横に振り、視線をもう一度だけ先程の方向へ向ける。
その視線の先にあるもの――トールが巫女の護衛として忠誠を誓った剣と、彼女が儀式の為に巫女として着飾らなくてはならない衣装が無造作に置かれている。
それは、彼らがそれぞれの"位置"を、ほんのひと時の間だけ脱いでいる様をそのまま表していた。"巫女"と"護衛者"という立場ではない。"村で権力のある男性の娘"と"亡くなった村長の息子"で、"彼女"と"彼氏"という単なる本当の人間関係の現れ。

「私の一目惚れだから、頑張って関係が作れたかもしれないじゃない。私が――巫女の能力が無い、ただの村娘だったら」
「そしたら意外と俺達会えなかったかもしれないぜ? 村長の息子とただの村娘、ってことで周囲が反対していたかもな」
「貴方のお父様、ルーク様はそんな人じゃないでしょう。現に、私と貴方の婚約が決まる前から私達の関係知っていてし、貴方がいないときはいつも『トールとの結婚はどうするんだ?』って聞いてばかりだったもの」
「あの馬鹿親父、俺のいねぇ間にそんなこと言ってやがったのか……」

くすくすと笑うルアナを抱きしめながら、トールがぼそりと呟く。
やがて、彼女が笑うことを止め、顔を再び彼の胸元に埋める。肌を重ね合わせる事で伝わる温もりが、愛されている事の意味を教えてくれる。

「トール」

本当は。
涙もろい、弟思いの、行動的だけど優しい、時に甘えた声を漏らす、十年そこらを生きた少女なのだ。気高く、尊く、厳かな雰囲気を持ち合わせる、巫女という女性ではないのだ。
口付けの音が静かな部屋の中に思った以上に響き渡り、それにどちらがともなく笑い声を漏らす。

「愛してるわ」
「俺もだ、ルアナ」

囁く愛が偽りでは無いと思って、互いが互いを抱きしめる。




だからどうか、この幸せを奪わないで下さい、神様。

二人の青年と女性は、確かにそう囁いたのだ。

"神様"がいるのなら、きっとそんな小さな願いくらいは叶えてくれるのでは無いかと。

それは純粋無垢な者達が想い描いた、現実に縋る唯一の方法だったのだ。




唐突に、世界から音が消えた。
口論の末に髪を引っ張られて、躯を地面に押さえつけられて、服を破られて、それで。
先程まで周辺に見えていたはずの兵士やら呪術者はいなくなっていた。
いるのは――"儀礼とて"婚約を結んだ男だった。
自分のことを見て欲しいだの、自分だけを感じて欲しいだの、自分だけに声を掛けて欲しいだの。
ふざけたことをいわないで、と。ルアナは先程叫んだばかりだった。
そう、馬鹿げた事だ。
彼女にとってはどうでもいいに等しい男性を、何故、見なくてはいけないのだ。声をかけ、感じなくてはいけないのか。
彼女が愛しているのは目の前にいる男性では無い。彼女の護衛者である青年だ。そして信頼しているのは彼女の弟だ。彼らだからこそ、彼女は"巫女"の面を脱ぎ、自分の意思を表にしている。無理をせず、楽しそうにしていられる。
気を許す気などない人間に、何を持って曝け出せばいいというのだ。例えそれが、"一族の掟"だとしても。

突然。
ルアナの目の前に立つ男性は狂ったように笑い出した。一人の少女として力強く睨みつける彼女を嘲笑うように。

「お前はもう、俺以外の誰も触ることは出来ないし、俺以外の誰もがお前に触れることは出来ない! 見ることも、声を聞くことも出来ない。そう――お前は、俺の物になったんだ!」

意味が、分からなかった。だが、それを嘘だと否定するための言葉が出てこなかった。

感覚的に、何か、いるような気がするのに。

周辺に人はいない――否、見えない。彼らの声も、姿も、何も、感じられない。ただ目の前の男性の姿しか、声しか、聞こえない。それ以外の何も感じられはしない。
呆然としているルアナに追い討ちをかけるように、男は声を荒げる。

「これで、お前は、あの護衛――トールの姿も見なくなるんだ! 最高だろう? お前の弟やその他親類はもちろん、お前は俺以外の誰にも会えない。だが――それによって、"巫女"のように振舞えるんだよ、お前は! 安心しろ。俺がお前を支えていってやる。その背中の紋様は消えないからな。――まぁ少しずつ感情も消えうせていくが、その文だけ俺はお前を愛してやる。どうだ、いい話だろう――?」

その言葉に、ルアナは、首を後ろに向ける。
大きな背鏡に映るのは、自分、と、目の前で"何事か"を叫ぶ男性。
そこに映る自分の背中には、見慣れない"呪術"が描かれている。複雑に描かれたそれは、少なくとも効力が今も尚発揮されている事を、ルアナは"巫女"の持ちえる膨大な力より理解していた。そしてそれが、自らの能力を糧に発揮されており、解くことが不可能だという事を知っていた。

それはつまり、愛する彼や弟を感じることができないという事で。
彼らの声も、ぬくもりも、何もかもが、全て。




彼女の世界から消えうせてしまったという事を意味するわけで。






ルアナは叫んだ。声の限り、ずっと。
それが意味のある叫びだとは思わない。ある種の悲鳴、もしくは絶叫か。
目の前の男が、その叫びに顔を顰めたと思えた一瞬に頭を抱える。そして"空中から銃を取り出し"自らの米神に押し当てて――彼女の絶叫だけがその場を満たし、それ以外の音と言う音が掻き消える。どさりという音も、紅色の液体が地面に広がっていく音も、何もかもが、掻き消える。
やがて、ゆっくりと彼女の声が収束する。後に残ったのは沈黙だった。風や獣の鳴き声は無く、ただ闇のような静けさが残った。
ふと、ルアナは視線を下に向ける。この世の物とは思えないものを見たと言わんばかりの絶望に満ちた男性が床に転がっている。その手には、その彼が"彼女には見えない人間の懐より取り出した拳銃。男性のこぼす血の溜まり場で濡れ、彼女が掴み上げると、その手にぬるっとした感触があった。
それを拭き取る事もせず、彼女が自らの手の中に黒い機械を納める。


ゆっくりと動き出すと、引き摺るほどの長いドレスの裾に、鮮血が染み渡った。





「ああ、トール。――貴方でしょう?」

扉の向こうには、白いワンピースを見に纏う女性がふんわりとした笑顔を浮かべていた。
トールはその顔を良く知っている。普段、彼女が彼と一緒に、ただ二人でいる時に浮かべる、心からの笑顔だ。
それは、教会の中にいた人間すべてを皆殺しにしたこの現状で、酷く馴染んでいた。鉄の錆びたような匂いが鼻腔を満たし、思わず吐き気を覚えそうなその教会の中は、激しい雷雨とは打って変わった静けさを保ち続けている。

「ルアナ……これ、は……」
「ふふっ、この現状の事かしら? 残念だわ。貴方の驚いた顔って中々見れないんだもの。ええ、これは私が一人でやったもの。すごいでしょう?」

掠れた声が喉の奥から零れ、疑問となって彼女へ、一族の巫女であり、彼の、トールの護衛主であるルアナへと向けられる。
彼女の声は、この現状をなんとも思っていない、ただ普段のように、済んだ鈴の音色を思い起こすような綺麗な声だ。トールは、何もいえないで立ち尽くすしかなかった。

すると唐突に、ルアナが動き出す。
ゆったりとした黒く長い髪には、その周囲で転がっている"モノ"の体液が付着している。僅かな、外の稲光と、ぼんやりと灯る明かりだけしか視界のための光が無い部屋で、それは彼女の髪に決定的な違いを浮かび上がらせている。
よく見れば、首に巻いている透明そうなスカーフにも、真っ白かったはずの白いワンピースにも、どちらにも確実に黒い染みがついていることに、トールはやっと気がついた。
それを見計らったかのように、ルアナが口を開く。普段、アイレッド族の巫女として、人々に朗々と語りかけるような、尊大な、尊厳な、それでいて、酷く弱った女性の声で。

「私は、貴方が今何を言おうとしているかも、言っているかも分からない。貴方がどんな表情をして私を見ているのかも、あるいはこちらを向いているのかも分からない。でも、そこにいるのだけは分かるの。そして、それが貴方だって言うのは分かるの。――ううん、信じている、というのが正しいのかもね。だからこれは全部、貴方が私の為にしてくれる反応を想い描いての、言葉」
「何が、一体……!」
「多分貴方だから、理由を聞きたいのよね? お願いだから、笑って聞いてね。……真面目な話じゃ、ないから」

ルアナがにこりと笑う。
普段、トールと、そして一部の人間にしか見せないその笑顔で、彼女は言葉を続ける。

「あのね、ほら私、政略結婚させられてるわけじゃない? 今日の夜ね、貴方のいないときを見計らったみたいに、ソイツがやってきたの。それで『俺だけを見てくれ』なんて馬鹿げた事言ってね――私の家に古くから伝わる"紋様書"を使ったの。抵抗しようとしたんだけど、なんていうのかしら……体格の違いとか力の違い? そんなので結局抵抗できないまま、連れてきた呪術者とかの所為で、私、"呪術"を施されて……その結果がね、私の視界と聴覚のすべてが、その人以外の誰も認識できないっていう代物。それで、段々と感情をなくして、最終的に巫女として振る舞えるようになるんですって――どう、可笑しいでしょう?」

トールは何もいえない。呆然と、その場で立ち尽くす。動いて近寄ることも、後退することも、何も出来ない。ただ――現実を認めたくないといわんばかりに、首を微かに左右に振っている。
彼女の笑みには、決して、強い物は見えない。それでも、目の前の愛する彼を動かなさいようにするだけ、見えない"何か"があった。

「――そう、これで私は、最愛の貴方や大好きな弟の声も聞けない。顔も見れない。ただどうでもいいような人間の顔と声だけしか聞けなくて、気でも狂えといわんばかりの仕打ちよ。当然、こんなことをしても、正当防衛とかじゃないかしら、それこそ」

くすくすと笑うその彼女の瞳からは、何かが零れていた。それは外で激しく、叩きつけるように降り注ぐそれと酷く似ていて、しかし、決定的に違っていた。
トールが、躯を無理矢理動かし、足を一歩だけ進ませる。目の前の彼女には届かないと理解している。それでもなお、諦めないように首を横に振る。

「ルアナ、だが――」
「『こんな事をしなくても傍にいてやる』かしら、貴方の事だから。でもね、トール。私は、愛おしい貴方や、そして大切な弟の、フォルの存在があったから、ここまでやれてきたの。アイレッドの族の巫女として崇められる生活は、正直大嫌いだって貴方も知っているでしょう? もっと女の子らしく遊んで、一杯色々な物を貴方と一緒に買って、貴方との沢山の時間を過ごしたいと思った。もっと姉らしくフォルと遊んであげて、色々と勉強やほかの事を教えてあげて、あの子の楽しい話を一杯聞いて、そして聞かせてあげたかった」

その声には、泣き声と嗚咽が混じっていたのかもしれない。もしかすれば、彼女の顔は今まであまりみなかった、とても歪んだ表情だったのかもしれない。
しかしトールには、目の前の情景がただ遠い昔のように感じられた。自分には、全く違う、酷く現実味を帯びない今。
そして。
彼女が後ろ手に回していたその手に握られていた黒光りするその機械は、先端からその奥が深い闇のまま光を返す様子は無い。それが、さらに彼の思考を現実から遠ざけた。

「――――ルアナ…………?」
「ごめんなさい、トール。貴方を置いて行ってしまう私を、許して。フォルを、お願い」


首を振った。足を踏み出そうとした。しかし、足もとの血塗られた床に隙を取られ、トールはよろけ、こけた。普段ならするはずのないミス。それはまるで、そうなるように、定められていたのではないかというほどの、おぼつかない、足取りで。

「…………やめろ」

掠れた声で呻きながら、無理やり上げた視線の先。ひどく遠い距離で、銃口を自らのこめかみに押し当ててる彼女は――――涙を流しながら、いつもの困った笑いを浮かべ。

「愛していたわ、トール」


銃声が、彼の悲鳴が、大雨に包まれた教会の中に響き渡った。





 神様なんているわけないのね。
 私達の幸せを糸も簡単に壊しちゃうんですもの。
 もしもいるなら、それこそ恵まれない人に手を差し伸べるはずでしょ?
 本当におかしいわよね、この世界。


彼がいると"思しき"方向へ振り向いて、ルアナは最後に笑った。
大好きな彼に見せる、優しく、温かく、甘えた、それでいて、泣きそうな、でも強い意思を持つ、笑顔。


 フォルのことをお願い、トール。貴方以外には、頼れないから。
 愛していたわ、トール。私の……一番、大切なひと。






「神はな、理不尽なんだよ」

手の中にあるのは冷え切ったワイングラス。月の光をグラスの中で乱反射させた明かりは、トールの足元を照らす明かりの中に、別の小さな光を作り出す。
彼の膝元にはフォルがぐっすりと眠っている。まだ十とそこらの、幼く、あどけない、無防備な表情。それを見つめて彼は呟きを止めない。一度呟きを起こした声は、留まる事を知らない。

「貴族だって国王だって、俺達が本当に困っているときには、結局誰も助けてくれはしない。定められた運命を取り仕切るためだけに、自分たちの利益を優先した未来しか選ばないんだよ――どいつもこいつも、葛ばかりだ」

呟きと共に、手の中にあったワイングラスの中のワインを飲み干す。葡萄色に染められた液体が喉を通り、僅かに口の中に含みきれなかった分が、零れ落ち、首筋を伝う。吐き出した息は、果実と酒の匂いを帯びていた。

「噂では、国王の持つ特別な力は"神の力"らしい。本当、笑えてくる話だ。王が神を気取る? 笑わせてくれる。神は、本当に助けを求める人間を救う。そう、教えられているはずなのにな」

くつくつと、笑い声が喉から零れる。膝の上で躯を丸めていた少年が僅かに身じろぎをし、鼻にかかるような息を漏らして、彼は声を潜める。
もう一度、フォルへと視線を向ける。表情は穏やかで、口元には小さな笑みが浮かんでいる。夢の中だけでも、せめて、楽しい夢であって欲しいと、トールは思う。

そうでなくては、彼女の弟(フォル)が報われない。

「お前は間違えるなよ、フォル。――大切な物は、神とか権力とかそんな不確かな信仰なんかじゃない。お前の意志だけなんだ」

真面目に言い聞かせるように、トールは囁いた。膝上で眠るフォルは、今尚、夢の中だった。



Blind Justice

    盲   目        の        正   義


(「私は、二人のいる世界でしか生きていくことが出来ないわ」
 「一族の王を捨てて"愛"をとった俺を嘲笑うか、"輝神の王"め!」
 「ごめん、なさい…………ごめ、ん、なさい……!!」
 一人の女性である少女は儚い笑みでそう呟き、死んでいった。
 一人の青年は国王に勝ち誇った笑みを見せて、死んでいった。
 一人の少年は絶望を思い出して、嘆き、謝り続けた。)

070322+/実はその前に書いた話も交えて一セットにしてみました。結構続くんだなぁ、これ……。で、結構ブログでは騒いでいます、トールとルアナの話。
多分、この二人は何もなければ単なる主従でそれこそ現在の王様と王妃様的な関係になってた感じ。ルアナは気丈な娘でそれを知ってるトールはひたすら心配してばかりみたいな。
しかし現実は、フォルとルアナの父親が娘息子を物扱いするような存在で、ルアナは出来るだけ矛先を自分に向けるように体を張っていたわけです。
ところでこのキングダム地方における話は、国王と王妃を除いたほぼ全てがが完結した恋愛にいきつかないのが数多くあって、この二人もそのうちの一人。
肝心なところのあと一歩。もしもあの時〜、というのは仮定であり、決して本当にはならないIF(もしも)の空想なのです。
……いやね、気づいたらそーだったわけで他に意味は全くもってなかった、の、よ……本当ですよ?(汗)
ちなみにフォルは未来編終了あたりでトールが死んだ後は暫く部屋に引きこもって謝り続けている感じ。
最終的には周りの面子(特に奴が好敵手と言ってるけど彼女っぽい方の影響もあり)自分で先を見ようと吹き返すわけです。

再生と離別。それが、フルートの中ではある意味で未来編のテーマとなっています。…………あれ、ポケモンの話らしくないのは何故orz